有島武郎研究会

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第59回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2017年5月10日公開
有島武郎研究会第59回全国大会
日本近代文学会北海道支部との共催

《特集 有島武郎個人雑誌『泉』という〈場〉》
 有島武郎研究会の第59回全国大会(2017年度夏季大会)を、下記のように開催いたします。参加自由・聴講無料です。ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

  • 日程 2016年6月4日(土)10:00開会・17:30分閉会
  • 会場 北海道大学札幌キャンパス 人文・社会科学総合教育研究棟 W409会議室(4階)
  • 交通
    • JR札幌駅北口から徒歩約7分
  • 〔評議員会〕 12:00〜12:45

===プログラム===

  • 開会の辞(10:00) 

片山 晴夫

研究発表1
 (司会)梶谷 崇
有島を照らし返す視座―早川三代治が企図した最後の〈問いかけ〉―
亀井 志乃

研究発表2
 (司会)片山 礼子
『石にひしがれた雑草』論―「男らしさ」の危機―
張 輝

〔休憩〕 12:00〜13:30

講演
重ね書きする/される有島武郎―宣言・共同体・アヴァンギャルド
日高 昭二

《特集 有島武郎個人雑誌『泉』という〈場〉》
 (司会)渡邉 千恵子

【シンポジウム 報告】(14:45〜16:20)

メディアとしての『泉』     
阿部 高裕
小説家であること―有島武郎「独断者の会話」論―
石井 花奈
略奪と贈与のアンチノミー ―有島武郎個人雑誌『泉』掲載作品とアナキズム― 
村田 裕和

〔休憩〕 16:20〜16:35

【討  論】(16:35〜17:30)

  • 閉会の辞 

中村 三春

【総会】(17:30〜18:00)
【懇 親 会】(18:30〜)

  • 会場 サントリーガーデン昊(そら) (TEL 050-5877-1714)

→発表要旨は「続きを読む」をクリック
【研究発表 要旨】
有島を照らし返す視座
―早川三代治が企図した最後の〈問いかけ〉―

亀井 志乃

 〈北海道開拓〉という大情況を背景に札幌農学校で学び、まだ若い頃に父から狩太の農場を譲り受け、そして最後は〈農場開放〉というインパクトある方法で自らの権利を手放した有島武郎。彼の人生の軌跡は、常にその〈結果〉から遡及される形で、“近代日本の知識人の思索”の一典型として重要視されてきた。様々な形で批判の対象とされる有島の思想と行動ではあるが、彼の〈解放〉に一定程度の肯定的意義があったという評価は、現在でもほぼ揺らいではいない。特に、北海道における〈弟子〉たちがその生涯を通じて有島を信奉していたという事については、一般にはまったく疑われてはいない。それも、通常は、“あの〈解放〉という立派な行為を決行した有島先生”という理由で尊敬されていたという風に解釈されている。
 しかし、〈弟子〉とされている者たちの胸中にも、実際には、有島の存命中から、葛藤や批評精神が芽生えていた。特に、小樽出身の早川三代治は、有島と非常に傾向が似た農民文学を著したとされているが、有島作品との共通点を指摘し得るのは、実は〈土と人〉シリーズの中の『処女地』のみであり、その膨大な著作群は、むしろ島崎藤村や、同時代のヨーロッパ文学・戯曲からの影響を色濃く反映している。自らを主人公とした『若い地主』などは、有島を自分の反省の鑑として強く意識しているものの、構成やストーリーは、有島が選択した道からの批評的発展を目指したものとなっている。加えて、これまで一般には知られていなかったが、彼はその晩年に、有島武郎を主人公とした小説『或る地主』を構想してメモを残しており、狩太(ニセコ)での有島邸の様子を再現すべく、親友の木田金次郎(岩内の画家・「生れ出づる悩み」の主人公のモデル)に協力も求めていた。
 本発表では、今年度に市立小樽文学館で企画している「早川三代治展」に基づき、作品群を通して早川と有島との関係を俯瞰しつつ、『或る地主』の構想内容を検討し、有島の農場解放を彼がどのようなスタンスで捉え返そうとしていたのかということについて考察してゆきたい。

『石にひしがれた雑草』論―「男らしさ」の危機―
張 輝

 有島武郎の作品においては、従来頻繁に問題にされてきた女性のみならず、男性の在り方も改めて論じる必要がある。抑圧の対象は女性だけでなく、男性もその対象となり得たのではないか。男性心理を語る長編小説『石にひしがれた雑草』においては、「女らしい」「男らしい」という言葉が頻出し、男であるAの自己に対する認識と期待の間に齟齬が生じ、混乱状態に陥っている。これにより、作品における男性と女性の関係だけでなく、男性同士の間の関係も不安定になっている。本発表はこのような観点から、ジェンダー批評の一環として主要登場人物の三人の関係を読み直してみたい。
 A・M子・佐藤の関係が三角関係へと発展する契機は、二度にわたる不倫事件である。Aは西洋書翰箋の紙切れの発見を理由として、妻と友人の二度目の不倫を認定し、復讐の計画を実行したことになっている。しかし、紙切れだけでは、二人の不倫の証拠にはならない。二人の密会もAの策略によるもので、二度目の不倫事件はAが拵え物の男女関係に安住できず、新たに画策した事件である可能性が考えられる。つまり、二度目の不倫の事件において、Aが主謀者で、二人は単にAに操られる人形となっている。この小説は表面上では、Aの恋愛と復讐を描いたものであるが、その本質は作られた男らしさの「構築−崩壊−喪失」の過程にすぎない。
 本発表は不倫と二度目の不倫の二つを区別して検討した上で、自分の妹と愛人の関係を妄想する『或る女』の葉子と比較しながら、『石にひしがれた雑草』における男性像を分析する。さらに、男女の性差による社会的役割に対する有島武郎の認識の先取性について考察を試みる。

【講演 要旨】
重ね書きする/される有島武郎―宣言・共同体・アヴァンギャルド
日高 昭二

 有島の「宣言一つ」(大正11・1)は、すでに周知のように、「片信」(大正11・3)以下「狩太農場の解放」(大正12・5・20)に至るまで、補完的な考えが次々と召喚されている。大部分「談話」としてなされたこの重ね書きは、「宣言一つ」とは異なった意味が求められよう。重ね書きすることが、重ね書きされる場になると言ってもよく、そこにはどのような場が開かれたのかと問うこともできよう。また、「愛に就いて」(大正11・11・5〜12・9)が「惜しみなく愛は奪う」(大正6・8)の語り直しであり、戯曲「断橋」(大正12・3)も『或る女』の一部を劇化したものであることはよく知られている。これも、ある種の重ね書きであろう。さらには、「酒狂」(大正12・1)、「或る施療患者」(大正12・2)など晩年の創作には、アヴァンギャルド芸術論におけるさまざまな「宣言」との重ね書きはもとより、対話、手紙の筆記、劇化という、まさしく重ね書きそのものをめぐる手法上の課題へと広がっていくだろう。
 その一方、農場解放をめぐる重ね書きの過程は、たとえば下中弥三郎の戯曲「かくて村は甦る」(大正14・6)や藤森成吉の戯曲「犠牲」(大正15・6、7)などをはじめとして、松川二郎「共産村めぐり」(大正15・8)や高田博厚「山羊を飼う―共産村が失敗した話」(昭和5・3)にまでその影を落としている。ここには、いわば重ね書きされた有島がいるわけだが、この重ね書きされることを通じてみえてくるのは、農村/農場、自治/共産をめぐる言説や運動の著しい差異である。
 この双方をふまえたうえで、さらに可能性としての重ね書きの場も想定しなければならない。おそらくそこには、「文化(史)」をめぐる問題や、アヴァンギャルド芸術をめぐる記号と表象の問題が浮上するだろう。有島をめぐる重ね書きへの志向は、いわば未完の端緒ともいうべき新しい場へ向けての思考を必要としているように思われる。

【特集 趣旨・報告要旨】
《有島武郎個人雑誌『泉』という〈場〉》

【司会者・渡邉千恵子より】
 評論「宣言一つ」で「第四階級的な労働者たることなしに、第四階級に何物をか寄与すると思つたら、それは明らかに僭上沙汰である」、「私の仕事は第四階級以外の人々に訴へる仕事として終始する以外あるまい」と語った有島だが、その一方で、「只我々は其の生活を沈潜させ、深く自然を省察し、人間性の本性に徹することによつてのみ、其処に彼等との融合点が見出される」(「第四階級の芸術 其の芽生と 伸展を期す」『読売新聞』大正一一年一月一日付)とも語っていた。
 だが、農場解放という形で経済資本を手放し思想と生活の一元化を図るも、「芸術的衝動」の「醇化」がもたらす「融合点」を希求していた有島にとって、自己の内に蓄えられた文化資本の問題は容易に逃れられないものであったのだろう。商業ジャーナリズム盛んなおり、文筆を生業とする人気作家有島は、あえてそうした商業主義と一線を隔す個人雑誌『泉』を創刊する。そこには有島ならではの「書くこと」を めぐる倫理が働いたとも考えられるが、シンポジウムでは、『泉』それ自体に焦点をあてようというのだ。
「宣言一つ」が誰に向けたどのような「宣言」であったかという問題と同様、個人雑誌『泉』はどのような読者を想定したものか、あるいはどのような 「読者」を作り出そうとしていたか、果たしてそれは成功したのか。具体的なテクスト分析を通じて有島の「創作」手法を明らかにしようという石井氏、『泉』に掲載された作品に通底するのは「贈与」と「略奪」であるとの視点から〈場〉を読み解こうという村田氏、「読者との関係が「直接」的になり得るなどとは考えていなかったはず」とした上で、『泉』そのものの有する「メディア的特質」に迫ろうという阿部氏。登壇されるお三方それぞれが、これまでにない着眼点を用意し取り組まれており、フロアーからの活発な議論が期待できそうである。今から発表が楽しみである。

メディアとしての『泉』
阿部 高裕

 個人著作集という出版スタイル、新潮社から叢文閣への出版拠点の切り替え、そして今回のテーマである個人雑誌『泉』の刊行。これらを踏まえると、有島は作家活動期間中、出版メディアに一貫してこだわりを持ち続けていたといえる。山本芳明氏はここに、「商業主義」からの差異化を通じて読者との「直接」的な関係を築こうとした有島の戦略を見出していた(『カネと文学 日本近代文学の経済史』、二〇一三年三月)。山本氏は、有島が目指した境地を「幻想」と否定的に捉えていたが、有島とて、いま・ここにはいない読者との関係が文字通りに「直接」的になり得るなどとは考えていなかったはずである。
 今回の発表で問いたいのは、山本氏の言う「幻想」、すなわち、読者との「直接」的な関係という理念を支えた現実的な基盤である。『泉』創刊の広告文には、次のような文言がある。「他の雑誌新聞に雑多な投稿をするよりも、この方法に拠る方が私の気分を純一にすることが出来る」。〈純〉を上位項、〈雑〉を下位項とする二項対立に裏打ちされた言説になっているが、以前も指摘したように(拙論『「愛」の思想と「宣言一つ」をつなぐもの』、二〇〇七年六月)、これと同型の発想を「美術鑑賞の方法に就て」(『太陽』大正九年一月)に見出すことができるだろう。有島はここで、他の芸術家の「個性、気質、技巧」と「交雑」することなく「一人の芸術家が純粋に立現はれ」る「個人展覧会」を、「最上」の「芸術鑑賞の方法」としていたのであった。だとすると、有島にとって「個人展覧会」とは、『泉』の刊行というアイデアのヒントになったメディア(の一つ)だったのではないだろうか。 
有島と「個人展覧会」との関わりを具体的に検証する作業を起点として、出版メディアに限定した観点からだと見落とされてしまう『泉』のメディア的特質を浮き彫りにすること。これが本発表のねらいとなる。

小説家であること―有島武郎「独断者の会話」論―   石井 花奈

 有島武郎個人雑誌『泉』(創刊は大正一一年一〇月/叢文閣)は、「私自身の読者にのみ語り得るといふ意識」(『泉』広告文/『時事新報』同年九月)のもとに創刊された。この「意識」は雑誌を有島の言説のみで構成するというところに如実に反映されており、それは不特定多数の読者の中から「私自身の読者」を抽出する操作でもある。実際、『泉』愛読者は「崇拝」「敬服」「敬愛」「賛美」(「諸方より故人を悼みて足助氏に宛てたる書(七月十八日迄に着の分)」/『泉』有島武郎記念号/大正一二年八月)などの言葉で"作者有島武郎″を形容し、超越者として位置付けようとする「有島信者」(田中純「有島武郎の甘さ」/『作家の横顔』昭和三〇年七月/朝日新聞社)とでも言うべき性質をもった集団であった(詳細は拙稿「「些かの虚飾も上下もない」関係―有島武郎「骨」再考―」『有島武郎研究』第一九号掲載予定を参照)。
 本発表で扱う「独断者の会話」(『泉』第二巻第六号/大正一二年六月)は、有島が波多野秋子との情死(同年六月七日)を遂げる前に発表した最後の作品であり、彼が『泉』という〈場〉に求めたものの内実を考えるうえで極めて重要な作品だといえる。
 同作は「A」と「面会人」との対話形式をとりト書きも見受けられることから、ひとまず戯曲的な形式をもっているといえる。ところが、『泉』目次には「創作」と記されている。『泉』の場合、「或る施療患者」(同年二月)以降の小説には「創作」と表記され、戯曲形式で書かれた「ドモ又の死」(大正一一年一月)と「断橋」(大正一二年三月)にはたしかに「戯曲」と表記されている。その原則に従えば、有島は「独断者の会話」を「創作」=小説として読んでもらいたいと考えていたことなる。つまり、同作は戯曲的な体裁を採った小説として構想されているのである。
もう一つ問題化したいのは、「独断者の会話」というタイトルである。「独断者」とは、とりあえず字義どおりに受け取るならば、「会話」による意志の疎通や相互理解を必要としない存在である。「会話」的関係を築くことと「独断者」であり続けることとは本質的に矛盾する。
 自分の言葉を使徒のように受け止めてくれる読者を獲得した有島は、なぜ最後の最後にこのような二重の捻れを含んだ作品を書いたのか。なぜ最後まで「創作」の言葉で読者との直接的な関係を築くことにこだわったのか。自分の思想を直接語りたければ、それにふさわしい表現はほかにいくつもあったはずである。本発表では、以上の問題意識のもとで「独断者の会話」を読み解くとともに、『泉』という〈場〉についての考察を深め、有島における「創作」とはどのようなものであったかを明らかにしたい。

略奪と贈与のアンチノミー ―有島武郎個人誌『泉』掲載作品とアナキズム―
村田 裕和

 有島武郎が、大杉栄、中浜哲、岡本潤たちに資金提供し、さらに「酒狂」「骨」に描かれたような人々にも援助を与えていたことは周知の通りである。「リャク」の対象としての有島は、彼らに蝕まれることをどう認識していたのだろう。有島は与えたのか、それとも奪われたのか。
 中村三春が「客——有島武郎晩期小説論、もしくは有島武郎とアルベール・カミュ」で指摘するように、《客》である略奪者によって《主人》はたじろぎ、主客の立場は逆転する。その「アクチュアルな典型例が植民地主義」であるならば、『泉』に掲載の「親子」はまさにその具体例の一つである。小作人たちの言葉の裏側に「御苦労はこつちのことだぞ」という威嚇を読み取ってしまう「彼れ」は、自分が招かれざる《客》であることを痛感する。農場の経営を巡って対立する父子の姿は、植民地の《主人》であり続けることの困難さの露呈であった。
 有島武郎が『泉』掲載作品のなかで繰り返し描いたのは、「贈与(相続)」と「略奪」であり、そのさまざまな組み合わせパターンである。「ドモ又の死」では、貧しい画家たちが天才画家の遺産相続者を仕立て上げ、富者の財産略取をもくろむ。「或る施療患者」では、叔父に虐げられて育つ「私」が盗みを働くが、その「私」は父の遺産を叔父に奪われていた。その他の作品も含めて、『泉』は「贈与」と「略奪」のよじれ合いであふれている。「贈与」と「略奪」は紙一重、あるいは表裏一体なのである。「或る施療患者」の冒頭に、「今の世は全く乱世だ」とあるが、大杉栄もほぼ同じ頃、「乱世」が近づいていると語っていた(『二人の革命家』)。革命とは乱世における「略奪」の正当化で、それはまぎれもなく「贈与(相続)」である。
 本発表では、「所有は盗みである」というプルードンの言葉も参照しながら、乱世における倫理としての「略奪」=「贈与」(とその失敗)という観点から、『泉』掲載作品を問い直したい。