有島武郎研究会

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第62回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2017年11月15日公開
有島武郎研究会第62回全国大会
後援:新宿区立新宿歴史博物館
《特集 有島家とヨーロッパ》

有島武郎研究会の第62回全国大会(2017年度冬季大会)を、下記のように開催いたします。
参加自由・聴講無料
です。
ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

  • 〔合評会〕9:40〜11:00『有島武郎研究』第20号合評会(進行:太田翼・張輝)同館講堂
  • 評議員会〕 12:10〜12:50 同館講堂

===プログラム===

  • 開会の辞(11:05) 

山口 直孝

《研究発表》11:15〜12:00
 (司会)荒木 優太

有島武郎と山本宣治について
内田 真木

〔昼休憩〕 12:00〜13:00

《特集 有島家とヨーロッパ》
【講演】13:00〜14:00(司会)内田 真木

武郎が子達に残したもの
神尾 筑馬

〔休憩〕14:00〜14:10

【シンポジウム 報告】14:10〜15:40(司会)木村 政樹

有島家とフランスのかかわりをめぐって     
杉淵 洋一
有島武郎とヨーロッパ ――美術をめぐって
三田 憲子
照応する有島武郎柳宗悦 ――ヨーロッパ中世宗教への理解を通して   
梶谷 崇

〔休憩〕15:40〜15:55

【討論】15:55〜16:45


  • 閉会の辞(16:45) 

佐々木 さよ

【懇親会】17:30〜


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【研究発表 報告要旨】

有島武郎と山本宣治
内田 真木
 有島武郎と山本宣治との交流について検証してみたい。これまで、有島と山本との関係については、「1922年 琵琶湖にて 武郎(左)と山本宣治」(『有島武郎事典』、勉誠出版、二〇一〇年、口絵)のキャプションのついた写真や山本のマーガレット・サンガー宛て書簡の一節に「For my recent activities Prof. Yoshino and Mr. Arishima will be able to give you some information.」(一九二二年三月一五日)と有島の名前が挙がっていることは知られていたが、詳細は不明であった。今回の研究発表では、山本の従妹高倉つう(旧姓:安田)や、山本が発起人になった「性学読書会」会員であった大石泰造(大阪毎日新聞社記者)、山本と同じ職場に所属していた飯塚直彦(内科医・京都帝国大学医学部助教授)を通して、有島と山本との関係を検討する。ちなみに、大石と飯塚は共に東北帝国大学農科大学農学科を明治四五年七月に卒業した有島の教え子である。高倉については、有島との交流を裏付ける証言や有島の高倉宛て書簡が残されており、有島とつうとの間に深い交流があったことが分かる。大石については、農科大学在学中、社会主義研究会を組織したり、平民社の秘密出版書、クロポトキン『パンの略取』を吹田順助に提供したことなどは分かっていたが、卒業後の事跡は不明の点が多かった。実は、一九一九年一一月七日、有島は大石と京都において再会していた。
 また、その後も大石と有島との交流は継続しており、あるいは大石が有島と山本との共通の知人であった可能性が高いのである。 飯塚については、山本が京大医学部講師に就任した一九二一年一一月当時、同じく医学部に在籍していた。山本は大津臨湖実験所勤務ではあったが、あるいは飯塚と面識があったのではないか。
 一方、有島は、一九一八年一一月、原久米太郎の長女俊子の治療を飯塚に打診したり、一九二一年春、京都滞在中の母幸子の往診を飯塚に依頼しており、有島の飯塚宛て書簡も残されている。有島と山本との交流期間は一九二一年春から一九二三年春までの短期間であるが、両者を繋ぐ環は思いのほか強いのである。晩年の有島の思想や実践を明らかにするためにも、両者の交流の実態を明らかにしていきたいと考えている。

【特集 趣旨・報告要旨】
《有島家とヨーロッパ》

【講演】
武郎が子達に残したもの
神尾 筑馬
 初めまして。神尾筑馬と申します。有島武郎の子、行光、敏行、行三の三兄弟の末の子、行三の長男で、武郎の孫にあたります。
 昭和二十一年、両親の疎開先、佐久市千曲川べりで生まれ、命名者は武郎の弟、画家の有島生馬でした。生馬は私の弟の命名もしました。この弟は生馬の娘、暁子の養子となり、有島姓となっています。
 私には弟が一人おりまして、命名者は同じく生馬です。
 私の苗字、神尾姓は武郎の妻安子の実家です。神尾姓となった経緯は、安子の父、神尾光臣(陸軍大将男爵)の跡取りが亡くなった事によります。神尾家を敏行、行三のどちらかが継がなければならなくなりました。父の話では、二人のどちらが神尾家に行くか話合うと、兄の敏行が嫌だというので、末子の父が養子に入ることになったとのことです。
 有島生馬との縁が深いのは、格別の意味があります。
 武郎の子、三兄弟は母を早くに無くし父をも失い、その孤児を引き取り育てたのが武郎の弟、生馬でした。
 生馬の娘、暁子と父達は兄弟同然に育ち、この仲の良い従兄弟姉妹関係が、生涯続き、有島の一族はその子たちもとても仲良く付き合いが続いています。
 この度、御縁をいただきまして、有島武郎研究会の皆さまの前でお話をさせていただくこととなりました。武郎の長男、行光の子、順吉がお話するのが順当ですが、日程の都合がつかず、代わりに私がお話をさせていただきます。
 皆様に何をお話できるのか、どのようなお役に立てるのかを考えますと、皆様のご熱心な研究に優るものはありませんが、このご縁となりました、有島の親戚の会「どんぐり会」を中心に、写真や絵をもとに、家族や親戚など人のつながりをお話することはできると思い、何かのご参考になればと考えました。
拙い話となることでしょうが、よろしくお聴きいただければ幸甚です。

【司会者より】
木村 政樹
 本特集のテーマである「有島家とヨーロッパ」を考える際に、今日まず課題となるのは、共同体のあり方と文学の関係をどのように捉えるべきか、という問いではないだろうか。文学研究・批評の思考が、ときに意図せずともナショナルな枠組みのなかで展開してしまうことの陥穽については、つとに指摘されていることである。他方で、様々な文化を通じて、これまでとは違う新しい関係性を創出することへの期待も高まっているように思える。
一九〇六〜七年の有島武郎のヨーロッパ旅行は、これまでの日本近代文学研究では十分に注目されてきた出来事である。しかし、ヨーロッパでは、近年に至るまで武郎の文学は特に知られていない。武郎が滞在したことも、ささやかな一つのエピソードに留まる。ここには圧倒的な非対称性がある。だが、あえてそのささやかな偶然の出会いに宿る歴史性から出発してみることで、大文字の「ヨーロッパ」とは違う世界がみえてくるかもしれない。
今回の三者の報告では、国境を越えた人とモノの結びつきが辿られながら、「文学」「美術」「宗教」の文化史的な意義に焦点をあてた考察が行なわれる。世界史的な文脈からみることで、これまでの有島武郎のイメージはどのように変貌しうるのか。また、有島家という「家」について、どのように理解すればよいのか。このシンポジウムが、多角的な対話の場になればと思う。

有島家とフランスとのかかわりをめぐって     
杉淵 洋一
有島武郎の遺稿集『愛する人々へ』(佐藤隆三編・改造社一九二六)の有島生馬による跋文には、兄・武郎の没後三周年にあたって、『或る女(前編)』のフランス語訳が、好富正臣とパリのオリエンタリストと呼ばれたアルベール・メーボンの二氏の手によって、Cette femme-làという題名で刊行されていることが記されている。この出版に先立つ一九二五年には、生馬の関東大震災を扱った小説『田舎の隣人』の仏訳であるMon voisin de la campagneが、当地の月刊誌Europeに掲載され、一九三六年には、生馬の長女・有島暁子によって、生馬の「海(序に代へて)」が仏訳されてLa Merとして、月刊誌France-Japonに収録されている。
 これらの有島兄弟の作品の仏訳には、単に小説のみの翻訳がなされているだけではなく、有島兄弟の当時の文壇における役割や、有島家の日本社会における地位についての説明を記した文章が付け加えられている。また、当時のフランスにおいて日本の文学や社会を紹介する目的で出版された書籍であるアルベール・メーボンLe Japon d'aujourd'hui(『現代日本』)(一九二四)、松尾邦之助Histoire de la littérature des temps archaïque à 1935)(『日本文学史――黎明から一九三五年まで――』)(一九三五)等においても、有島兄弟の日本の文壇、芸術界に果たす役割の大きさについて多くの頁が割かれている。
 有島生馬の友人でもあった上記のアルベール・メーボンは、一九一〇年代にフランスの新聞Le Temps紙の在京特派員として日本に滞在する傍ら、神田の仏蘭西書院の院主として、日仏交流のために心を砕いた人物である。そして、この仏蘭西書院こそが、その後、雑誌『白樺』が終刊を迎える際の発行所となっていくのである。
 本発表では、20世紀前半の有島家の人々とフランス人との交流、その結果としてフランスにおいてどのような形で有島兄弟の作品や有島家についての情報が発信されていったのかについて、武郎、生馬による言説、当時渡欧していた日本人達が残した証言、フランス語によって記されたArishimaをめぐる資料を用いて、一連の流れを整理してみたいと考えている。

有島武郎とヨーロッパ ――美術をめぐって 
三田 憲子
 武郎はヨーロッパ美術に幼少期から強く惹かれており、渡米時から美術館をめぐり、クロウェル家の長女(画家)に印象主義やラファエル前派(象徴主義)についての見解を求める等、同時代美術にまでの知識と情報を持っていた。
 武郎の原体験としてのヨーロッパ旅行は、一見古代ローマから現代欧州の中心都市ベルリン・パリ・ロンドンまで、ヨーロッパ文明を無秩序に観光したかに見える。しかし、米国から生馬に宛て、
 「君ヲ伴ヒタシト思フハ名画のアル所ヘナリ、今更ラ写真、版物ノ無意義ヲ悲シムノ外ナシ 写真と原画トハ全然別物ナリ(中略) 其差ハ天ト地トノ差ヨリモ甚シ。」(1904・8・29付)
 と、米国美術体験の率直な感想が伝えられ、「原画」観賞がヨーロッパ旅行の主要目的であったと推測できる。ヨーロッパでは滞在地ごとに美術館を訪問し、鑑賞した作家や作品が記録され、和蘭画派などは鑑賞作家の評価一覧メモまで残っている。しかし、武郎のヨーロッパ美術館・絵画めぐりの検証は現在まで試みられていない。今回は、これをできるだけ資料化して、武郎のヨーロッパ美術に対する感動や嗜好や志向を分析し検討してみたい。ただ、日記にはパリやロンドンの記録がほとんどない。この空白部分は、「反逆者」(1914)等の評論から、有島が訪問した美術館と作品の予測を立て、ヨーロッパ旅行における美術体験の全体像の把握を試みる。
 後年の「反逆者」では、ヨーロッパ中世を指標として、ロダンを「ゴシック傾向」の代表とし、マネやセザンヌと共に時代の「反逆者の頭目」とした。社会変革と美術を結節した有島独特の観点が示される。武郎自身「芸術によつて精神を、革命によって物質を変化させる外に道はない」「それだけの気位で」「芸術に行かうとした」(足助宛1918・1・15)と述べている。
 有島がクロポトキンアナキズムに強く影響され、中世自由都市を理想としたことは周知の事実である。しかし、そこに芸術を絡め、芸術に社会革命の一翼を担わせようとする視点はいかように生まれたのか。末永航氏は『有島武郎研究』19号で、ムーア教授とラスキンの関係を明確にされた。武郎がムーアを通じてラスキンの美術による社会変革の視座を獲得していたとすれば、ヨーロッパ旅行時の絵画の観方に既にその反映が認められよう。

照応する有島武郎柳宗悦 ――ヨーロッパ中世宗教への理解を通して   
梶谷 崇
 かつて拙論「有島武郎柳宗悦における中世主義――ロダン、ゴシックから民芸運動へ――」(『有島武郎研究』第十六号、二〇一三・六)において、有島武郎柳宗悦の西洋文明史観について以下のように比較検討したことがある。一九一〇年代、有島と柳はともに西洋中世(ゴシック)のコミュニティを人間社会の理想形として評価していた。柳の思想には有島との共通項も見出せ、一定の影響関係も見て取る事ができる。だがその後、有島と柳は思想的足取りを分かつ。有島は「文化の末路」(一九二三)において、階級に対する問題意識から天才待望論に陥る「民衆」に対する絶望に至るのだが、一方の柳は有島とは対照的に民芸を〈発見〉し、それを生み出す中世的コミュニティのあり方に新たな理想的社会像を見出す。そこでは有島のような階級意識は希薄で、今なお民芸的美を生み出し続ける「民衆」に対する楽観的な期待感が存在していた。
 この論考では「社会」と「民衆」に焦点を絞って議論したが、本発表では言及しなかった「宗教」に照明を当てることで拙論を敷衍したい。武郎は弟生馬との欧州旅行の体験を基にして、聖フランチェスコに言及した「アッシジの秋」や、聖クララを題材とした宗教小説「クララの出家」を一九一七年に相次いで発表している。一方の柳宗悦も、同時期にブレイクについての考察を通して、キリスト教神秘主義へとその思索の枠を広げ、聖フランチェスコへたどり着いている。有島と柳は白樺同人にあって思想的にもっとも近い関係にある。両者の聖フランチェスコ理解については江頭太助による先行研究があるが、先の拙論における両者の中世観も合わせ比較したとき、有島と柳との間にヨーロッパ中世宗教に対する理解について新たな一面が見いだせるのではないか。本発表を通じてその差異と同一性をさらに深く追究したい。