有島武郎研究会

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第63回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2018年5月22日公開
有島武郎研究会第63回全国大会
《特集 「白樺」的なものの受容をめぐって―現代、女性、批評―》

有島武郎研究会の第63回全国大会(2018年度夏季大会)を、下記のように開催いたします。
参加自由・聴講無料
です。
ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

  • 日程 2018年6月9日(土)9:30会場・10時00分開会・17時05分終了
  • 会場 金沢大学サテライト・プラザ(石川県金沢市西町三番丁16番地 金沢市西町教育研修館内 ☎ 076-232-5343)
  • 交通(JR金沢駅から)
    • タクシー約5分
    • バス(北陸鉄道)約5分 → 武蔵ヶ辻で下車後、徒歩5分(上提町信号から尾崎神社へ進み、左側)
  • 評議員会〕 12:00〜12:40 1F会議室1

===プログラム===

  • 開会の辞(10:00) 

杉山 欣也

《研究発表》10:10〜11:40
 (司会)村田 裕和

恋愛の多角性―有島武郎或る女』論―
中村 建

「知識階級」問題とアナキズム有島武郎「宣言一つ」の前後―
木村 政樹

〔昼休憩〕 11:40〜13:00

《講演》13:00〜14:00
 (司会)下岡 友加

白樺派同人たちの宗教心
綾目 広治

〔休憩〕 14:00〜14:15

《特集 「白樺」的なものの受容をめぐって―現代、女性、批評―》
【報告】14:15〜15:50(司会)下岡 友加

平成の「白樺」派受容―有島武郎『星座』を中心に―     
上牧瀬 香
郡虎彦「義朝記」(The Toils of Yoshitomo)成立の背景―演劇、プロパガンダ、女性参政権運動―
鈴木 暁世
本多秋五武者小路実篤における共振と差異   
瀧田 浩

〔休憩〕15:50〜16:05

【討論】16:05〜17:05


  • 閉会の辞(17:05) 

佐々木 さよ

〔総会〕17:10〜17:40

【懇親会】18:00〜

  • 会場 ここちや(☎ 076-224-5518)


→発表要旨は「続きを読む」をクリック

【研究発表 報告要旨】

恋愛の多角性―有島武郎或る女』論―
中村 建
 有島武郎は「自己の要求」(大一〇・一)で恋愛について「恋愛の偏一性は、或る社界生活の便宜主義が生み出した後天的な狂ひではないかと疑はれる。恋愛の多角性が本来の本能的要求ではないかとさへ思はれる」と述べている。一方、同じ文章で有島は自分を愛する異性が自分と同じように恋愛の多角性を持っている場合に「深い嫌悪を感ずるやうなことさへなかつたならば、私は安んじてその傾向に従つて生活してゐるだらう」と述べ、この主張が矛盾を孕んでいることを自覚している。江種満子氏はこのような有島の「恋愛の多角性」の問題を課題として捉え(「有島武郎と女性」『国文学 解釈と鑑賞』平元・二)、『或る女』を完成させた段階でこの多角性を確信していたのではないかと指摘している(「有島武郎著作集第十五輯『芸術と生活』をめぐるノート」『有島武郎研究叢書第四集 有島武郎の評論』平八・六、右文書院)が、具体的な考察には踏み込んでいない。本発表では、江種氏によるこれらの指摘を出発点として、『或る女』を「恋愛の多角性」という観点から論じ、『或る女』に於ける恋愛と「恋愛の多角性」の問題について考察する。
 『或る女』の葉子は明らかに複数の人物に恋愛する「恋愛の多角性」を持つ人物であるが、『迷路』のAも葉子に共通するような「恋愛の多角性」を持つ人物であると考える。Aの恋愛の在り方を通して葉子の恋愛の在り方を考える時、「恋愛の多角性」の前提となる「恋愛」の概念そのものがあやふやになる。ここから見えるのは、「恋愛の多角性」とは恋愛の対象の多角性のみならず、恋愛の在り方の多角性でもあるということと、恋愛の実現が不可能であるということである。実際、『或る女』の岡は実現不可能である相手にしか恋出来ないと述べ、葉子も「自分の恋には絶頂があつてはならない」と思う。
 以上のような観点から『或る女』を論じ、今後有島武郎の作品における恋愛と「恋愛の多角性」の問題を考察する足掛りとしたい。

「知識階級」問題とアナキズム有島武郎「宣言一つ」の前後―
木村 政樹
 有島武郎アナキズムの関係は、これまで研究が蓄積されてきたテーマである。今日この観点から検討する際には、思想史や歴史学、社会運動史などの領域との接続が求められるだろう。近年、思想と運動の国境を越えた連関についての考察によって、従来の研究の枠組が再考されている。当該期の思想のネットワークのなかで改めて有島を読んでいきたい。
 本発表では、『労働者』(労働社を発行所として一九二一年に創刊)に掲載された「知識階級」論を起点として、当時の運動の言論と有島の「宣言一つ」前後のテクストを突き合わせていく。同誌では、「知識階級」ないし「指導者」への対決の姿勢が繰り返されることによって、運動家を批判する運動家という言説的位置の問題が浮上している。「宣言一つ」もまた、論者が特有の言説的な位置取りを示すことで論争を引き起こした。
 周知のように、一九四六年に平野謙は「「政治の優位性」とは何か」において、戦後のプロレタリア文学運動批判における参照項として「宣言一つ」を導入した。それは有島を戦後の認識枠組に再配置するための実践だった。平野らの先行する指摘をふまえつつ、右の観点から有島を再読することは、そうした戦後のリテラシーを相対化し把握することにも資するだろう。有島と同時代の「知識階級」論を並置してみえてくるのは、アナ・ボルという二項対立による整理からは取り逃される階級論の特質である。そこでは社会主義用語をめぐる概念のダイナミックな運用がみられる。それがプロレタリア文学理論との偏差として触知されることによって、戦後の思想的な資源ともなったともいえよう。有島とアナキズムの連関を読み解きながら、社会主義と文学をめぐる概念史の一齣について分析を試みたい。

【講演】

白樺派同人たちの宗教心
綾目 広治
 白樺派同人たちの多くは、宗教心を持つことの大切さを語った。武者小路実篤は、『幸福者』(一九二○)の「先生」に「自分の心に神をやどすのが大事なのだ」と語らせている。では、その「神」とは何かという問題になると曖昧であって、「御釈迦様」に頭を下げるのが「一番すなほ」だとも「先生」は語る。『真理先生』(一九四九)では「神」とは「自然」だとされ、キリスト教でそれを「天父」と名づけ、孔子は「天道」だと呼んだと、「真理先生」は語る。そうなると、その宗教(神)とは実に大雑把なものになってくるのだが、実は多くの白樺派同人の宗教心はそのようなものであった。それはまた、白樺派らしく、「自分の生命を(略)生かしたいと思ふから宗教は生まれるのだ」(『幸福者』)とされているように、宗教はあくまで自己の伸長のために要請されるものであった。
 長與善郎は代表作『竹澤先生といふ人』で、そのことをもっと徹底した言い方で、自分たちの「安心立命」のために「自分の神をでつち上げなければ」ならない、と「竹澤先生」に語らせている。また、「竹澤先生」は「僕は来世を信じてはゐないからね」とも語る。やはり神や宗教は、あくまでこの世での自己の人生を円滑に進めていくために要請されるものなのである。さらには「自然のうちに生きる法としての神」という言い方もされていて、あたかも自然法則のようなものとしても神は考えられている。柳宗悦の場合では、無名の貧しい職人が作った下手物がなぜ美しいのかを解き明かす説明原理として、浄土真宗の他力本願の考え方が導入されている。これも、武者小路や長與たちに通じる、宗教のプラグマティックな援用という面がある。
 もっとも、彼らは小手先の理屈として宗教を用いたのではなく、宗教に対して真摯に向き合ってはいる。しかしそれは、当時の一般の宗教心とは異なるものであった。本講演では、有島武郎志賀直哉にも言及しながら、白樺派同人の宗教心の特質を考えてみたい。

【特集 趣旨・報告要旨】
《「白樺」的なものの受容をめぐって―現代、女性、批評―》

司会者より
下岡 友加/運営委員会
 『文豪とアルケミスト』が若い女性に人気だという。日本近代文学史に登場する作家をイケメン・キャラクターとして造形し、収集したキャラで敵を倒していくオンラインゲームだ。有島武郎も、志賀や武者小路に後続するかたちで、刀で戦う白髪の内向的な美少年として「転生」(=ゲームのキャラとして登場)している。ちなみに、ゲーム内の有島は図書館でよく居眠りをする癖があるらしい。
 いささか軽薄にも見えるこのような現代の受容を、しかし単なる無理解と切って捨てることはできまい。たとえば、山本芳明『カネと文学』等が明らかにしたように、大正期から既に有島は文壇でも指折り数える人気作家で、とりわけ女性読者に歓迎されていた。『痴人の愛』のナオミは有島を「今の文壇で一番偉い作家だ」と褒め、小林多喜二の短篇『ある役割』には『星座』の続篇を待ちわびる女学生の姿が点描されている。
 戦後の本多秋五が「よくわからぬ」と述べ、以降多くの研究者がその感想に共感したように、有島は決して理解の易しい作家ではない。が、にも拘らず、彼のテクストはかなり広範囲の射程をもっていた。テクストは読者の欲望に準じて、「期待の地平」(ヤウス)のなかに現れる。同時代の読者たちが有島という作家イメージに期待したものは、その実像との乖離という点で、現代と大差なかったとも言えよう。無論、ことは有島にとどまらず、他作家や、理想主義・人道主義といった言葉とともに語られがちな白樺派という流派にも及ぶ。
 変形、翻訳、誤読といったアダプテーションの諸相を、パネラー三氏には最新の成果をもとにご発表頂く予定である。上牧瀬香氏には平成期の有島受容を、鈴木暁世氏には英国における郡虎彦受容を、瀧田浩氏には本多秋五の武者小路受容を中心にそれぞれ問題提起して頂く。果たして「『白樺』的なもの」とは一体何を指すのか? 会場に集まって下さる方々も含めて、そのイメージの相対化と可能性についてじっくりと討議することができれば幸いである。

平成の「白樺」派受容―有島武郎『星座』を中心に―     
上牧瀬 香
 三〇年続いた平成時代が、終わろうとしている。作家たちが存命であった昭和期こそ「白樺」派の存在感の色濃い時代であったが、平成期の受容とは、総じてどのようなものだったのだろうか。
 たとえば中等教育の現場を俯瞰すれば、定番教材「城の崎にて」は国語教科書から消えつつあり、「図説」等の副教材における「白樺」派作家たちの扱いも、改訂ごとに小さくなっている印象がある。また、若年層を中心に人気を博し、文学館とのコラボレーションも見かけることの多いマンガ『文豪ストレイドッグス』(二〇一三年〜、朝霧カフカ・春河三五、所謂“文豪ブーム”を牽引する作である)には、現一四巻の時点において、「白樺」派作家は全く登場しない。これらの事象をヒントとして、まずは平成期の「白樺」派受容について概観してみたい。
 一方で、紙媒体では入手困難でありながら、本文データが無料アップロードされたサイトを利用するなどして、積極的に読み継がれている「白樺」派作品もある。有島武郎『星座』である。「カインの末裔」(二〇〇六年)・「ドモ又の死」(二〇〇七年)に続く“有島三部作”の完成として、奥秀太郎監督が映画化(二〇一四年)・アートパフォーマンス化(「Constellation」、二〇一三年)すべく選んだのは、同作であった。そして、自筆原稿の発見をきっかけに北海道立文学館で今春開催された企画展「有島武郎と未完の『星座』」(二〇一八年二月三日〜三月二五日)では、高校生による朗読会やビブリオバトルが行われ、会場には人気漫画家の瀧波ユカリがキャラクター化した登場人物の等身大パネルが設置されるなど、受容層拡大のためのひたむきな努力がみられたのである。
 報告では、教育と他メディア化の観点から、「白樺」派作品、とりわけ有島武郎『星座』の受容について探ることで、平成期の文学状況のありようとその問題の一端を、浮かび上がらせてみたい。

郡虎彦「義朝記」(The Toils of Yoshitomo)成立の背景―演劇、プロパガンダ、女性参政権運動― 
鈴木 暁世
 郡虎彦は、『白樺』創刊号に「エレクトラ梗概」を発表し、同誌に自作戯曲「鉄輪」や評論等を発表し続けたが、一九一三年に「世界的文人」になるという信念を抱いてパリを経由してミュンヘン渡航し、翌年英国へと移住した。その後、郡は、謡曲「鉄輪」を典拠とする「鉄輪」(Kanawa:The Incantation、一九一七)や『保元物語』を典拠とする「義朝記」(The Toils of Yoshitomo、一九二二)を英語で刊行し、ロンドンを活動の拠点としていった。「鉄輪」は、女性参政権論者によって組織された劇団「パイオニア・プレイアーズ」によって、女性演出家イーディス・クレイグと郡虎彦の共同演出のもと上演された。郡は、同劇団の評議員となり、一九二二年十月三日からは「義朝記」が、イーディス・クレイグによる演出でロンドンのリトル・シアターにおいて三週間にわたり上演された。郡は、Geisha(一八九六)やMadama Butterfly(一九〇五)などが持てはやされた一九世紀末からのジャポニスムを利用し、戦略的に能や謡曲に取材した作品を西洋に向けて英語で発表すると同時に、自作戯曲に強い意志を持つ日本女性を登場させたことで、同時代の英国の女性参政権運動論者と深く関わり合っていったと言える。彼は日本においてよりも英国で評価されたと言えるが、彼の戯曲が英国でどのように受容されたのか、日本の古典を典拠として郡が描いた日本女性像が、なぜ英国の女性参政権運動者達にインパクトを与えたのかという点については研究されていない。
 郡はイーディス・クレイグやエレン・テリーら女優、女性演出家達と関わり合う一方で、「義朝記」を執筆・上演した一九二二年には、新渡戸稲造に面会し、外務省の「嘱託及補助金支給宣伝者」として日本文化宣伝奨励金を受給していた。「義朝記」の執筆と上演は、日本の対英プロパガンダ活動等外交政策と女性参政権運動とが複雑に交錯し合った地点で成立していると言えるのである。本発表では、女性参政権運動家・文学者によって受容・評価された郡虎彦の戯曲の芸術性と批評性が、日本側の対外プロパガンダの一環としての活動とどのように関わり合っていたのかという問題を検討したい。

本多秋五武者小路実篤における共振と差異   
瀧田 浩
 武者小路実篤本多秋五を結ぶ研究はほとんど見当たらないが、「藝術・歴史・人間」(一九四六年一月『近代文学』創刊号)、「捨子」(同年二月『近代文学』二号)、「小林秀雄論」(同年三月『近代文学』三号)における本多の主張をたどり、本多が選び、編集した武者小路の初期感想集『若き日の思索』(一九五二年一〇月・三笠書房、一九五五年九月・角川文庫)の頁をめくれば、明治の終わりにおける武者小路の思想と敗戦直後における本多のそれとが強く共振していることに気づく。「芸術家は「私」を殺しては駄目だ。彼の内部から湧きあがる興味と悦びのないところ、彼の「個人」の内部から噴き出す情熱のともなわないところでは、芸術は死ぬ」という「芸術・歴史・人間」の有名な一節も、作者名を隠して示せば、武者小路の初期の感想と見紛う人もいるだろう。本多の「僕はこれらの文章を読んで(武者小路さんのものをいくらか系統立てて読んだのは比較的最近のことだが)自分の生き方のうへで教へられるところが少なくなかつた」(『若き日の思索』「解説」)という言葉は、戦後における本多の思想が武者小路の影響を受けずに成立し、二人の思想は時を越えて(たまたま)共振したのだということを伝えている。
 戦前戦中、武者小路の作品はほとんど読まず、志賀直哉の作品は読んでいた本多は「灰色の月」に対する違和感を「捨子」の末尾近くで明確に示していた。「志賀直哉の『灰色の月』は、われわれの問題の延長線の真上に来る。「暗澹たる気持のまま渋谷駅で電車を降りた。」という結末は、精一杯のものではあろうが、矢張り淡すぎるのだ。(略)少くとも、この作品の枠内には納まり切らぬ激動的な体験がわれわれにはある」、と。
 さて、武者小路についてはどうだろうか。本多は後年、「戦争中に武者小路さんの戦争協力の文章をもし読んでいたら、私は、戦後に武者小路さんの仕事をまとめて調べたりはしなかったかも知れない」(「文学のひろば―武者小路実篤について」。『文学』一九七六年六月)と回想している。戦争中の武者小路の発言を許容しない本多の思想が武者小路のそれとぴったり重なるはずはない。この点を確認した上で、「本多氏は『「白樺」派の文学』の中で「有島武郎という存在そのものが、『白樺』派に対するもっとも本質的な(傍点は引用文のもの)な批評であった」と書いているが、ぼくは「本多秋五という存在そのものが『近代文学』及び政治主義的文学に対するもっとも本質的な批評であったと言い変えることができると思う。ぼくは本多氏が現在、美しい愛情を持ってすべてを賭け戦後派文学を擁護しているが、その論求(原文のまま)が深まれば深まるほど、戦後派の本質的な批判になって行くと考える」(「人と作品(三七)―本多秋五氏の巻」。『新刊ニュース』一九六三年一二月一日)という奥野健男の見立てを参照しながら、戦後における武者小路と本多の軌跡をたどりたい。明確な差異がありながらも、対戦後派という軸を設定した時に、一気に接近の相を見せる本多と武者小路。本発表では、共振の相と差異の相の両面を明らかにすることが目的である。