有島武郎研究会

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第64回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2018年11月26日公開
有島武郎研究会第64回全国大会
【共催】日本キリスト教文学会
《特集 有島武郎の文学とキリスト教―生誕140年》

有島武郎研究会の第64回全国大会(2018年度冬季大会)を、下記のように開催いたします。
参加自由・聴講無料
です。
ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

  • 日程 2018年12月8日(土)15:00開場・15:20開会・17:30終了
  • 会場 日本聖書神学校 大教室(東京都新宿区下落合3-14-16 Tel:03-3951-1101)
  • 〔合評会〕13:00〜14:10 於:日本聖書神学校 小教室
  • 〔評議員会〕 14:15〜14:45 於:同上
  • 〔臨時総会〕 14:45〜15:00 於:同上

===プログラム===

《特集 有島武郎の文学とキリスト教―生誕140年》

  • 開会の辞(15:20) 

勝呂 奏(日本キリスト教文学会)

《講演》15:20〜16:30
 (司会)宮坂 覺

有島武郎の文学世界とキリスト教
石丸 晶子

《研究発表1》16:30〜17:00
 (司会)鈴木 ふさ子

文化翻訳における死生観の違い―オスカー・ワイルドと有島武郎の童話を中心として
宮本 裕司(日本キリスト教文学会)

《研究発表2》17:00〜17:30
(司会)荒木 優太

有島と内村の信仰を対比させて
北原 照代

  • 閉会の辞(17:30) 

佐々木 さよ

【懇親会】18:00〜


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【特集 趣旨・講師プロフィール】
《有島武郎の文学とキリスト教―生誕140年》

運営委員会より
 有島武郎という人間の人格形成を語る上で、欠かすことのできない要素として《キリスト教》の受容があげられる点は、言を俟たないことであろう。一八八三年、有島が五歳の時に、アメリカ人宣教師の家庭でキリスト教に親しんで以来、その宗教に対する理解を、内村鑑三、新渡戸稲造といった先達のクリスチャンとの度重なる交流の中で深めていき、一九〇一年三月二四日、札幌独立基督教会に正式に入会し、名実ともに一人のキリスト者として生きていく道を選択するに至っている。しかしながら、アメリカでの留学中に、当地のキリスト教の組織としての腐敗や教義からの逸脱を目にしたことなどから、組織的な信仰への疑念がふくらみ、一九一〇年五月には、教会を自主的に退会し、有島は組織としてのキリスト教からは袂を分かつことになる。その一方で、その後の有島の作品や私信の中にも、キリスト教への継続する信仰と愛着を吐露するような言説は、終生にわたって残り続けた。晩年、親しく交流のあった牧師の竹崎八十雄に送った書簡にも、有島は、「私は基督教会からは離れましたが基督を離れたとは思ひません」と、そのキリスト教への肯定的な思いを吐露している。
 宮野光男氏は有島の作品について、「そこに示されている人間に対する同情と共感の原理には、キリスト教によって養われた愛の人としての誠実さの反映をみることができる。」と言及している。そうであるならば、有島の作品とキリスト教は表裏一体の関係であり、その関係性を明らかにすることこそ、有島の作品のより精緻な理解のためには必要不可欠な作業と言えるのではないだろうか。
 有島武郎の生誕一四〇年を記念する二〇一八年の終わりに、有島武郎の文学とキリスト教とを結ぶ関係性について、日本キリスト教文学会の会員の方々とともに、多角的なアプローチによって再検討する機会を設け、これからの有島武郎文学の行く末を模索する生産的な機会としたく考えている。

【講演】

有島武郎の文学世界とキリスト教
石丸 晶子
【講師プロフィール】
 一九三五年、東京生まれ。東京大学文学部美術史学科および国語国文学科卒業。同大学院人文科学研究科博士課程修了。
 二〇〇六年三月まで東京経済大学教授。現同大名誉教授。本来の専門は近代文学(有島武郎)だが、日本古典についても数多くの著作がある。著書に『有島武郎―作家作品研究』(明治書院)、『式子内親王伝―面影びとは法然』(第一回紫式部文学賞受賞)、『万葉の女たち男たち』(朝日新聞社)、『こだわりの大和路―花と恋の万葉集』(祥伝社)、『歴史に咲いた女たち―飛鳥の花・奈良の花』(廣済堂)など多数。

【研究発表 報告要旨】

文化翻訳における死生観の違い―オスカー・ワイルドと有島武郎の童話を中心として
宮本 裕司
 今回の発表は、文化翻訳の際、どのような要素が作品に影響するのかを研究する試論である。発表者はその中でも、アイルランドの作家オスカー・ワイルドの童話と有島武郎の翻案童話を通して、キリスト教と死生観のかかわりに焦点を当てる。欧米だけでなく日本でもワイルドの童話は受容されており、とりわけ「幸福な王子」が人気のある作品である。有島はワイルドの「幸福な王子」を翻案し、「燕と王子」を執筆した。
 ワイルドはヴィクトリア時代のデカダンスと唯美主義の旗手とみなされることが多いが、彼の「幸福な王子」は神による救済を描いている。退廃的な作品の多いワイルド文学の中では、異色な作品といえる。有島の「燕と王子」は、「幸福な王子」を模倣しながらも、キリスト教的要素を感じさせない作品となっており、この二作品の読後感は全く異なっている。
 ワイルドがキリスト教の神による救済という結末をよしとしたものを、有島は換骨奪胎し、一貫して江戸時代と思われる日本を舞台とした和風の童話に仕立て上げ、キリスト教色を排した。「燕と王子」は因果応報や輪廻転生を連想させる描写があり、キリスト教を棄教した有島の複雑な思想が投影されている。欧米の価値観ではよしとされないであろう結末を、「めでたしめでたし」という一文で有島は締めくくっている。この二作品の差異は、両作家の死生観の違いと、欧米と日本の文化の違いに起因すると筆者は考える。
 今回の発表では、当時の文化的背景と両作家の思想的遍歴をふまえ、両作品をテキスト分析する。

有島と内村の信仰を対比させて
北原 照代
 私は今まで、有島が入信し没するまでに記述した聖書句や聖書からの引用語を、日記と全作品の中から抽出し、それを「聖書の本文表」と「聖書の本文表一覧」として表化し、有島の聖書受容実態を辿ってきた。今回は新たな試みとして、有島が入会した札幌独立教会の創立者内村鑑三と有島の信仰観を比較することで、有島の離教の原因を見究めていきたい。その為に、比較項目を「真理」・「十字架の信仰」・「罪―自由意志・性欲」・「贖罪」・「ロマ書」・「義(救い)」・「犠牲献身」・「復活」・「札幌独立教会」・「教会制度」に分類して、両者の信仰の相違を浮き彫りにするのがねらいである。「我に教会なし。然れどもキリストあり。」(『聖書之研究 所感』明四十一・十二)と唱える内村の信仰は無教会主義を貫いており、キリストと共に生きる十字架の信仰であり、「余が最も深く興味を感ぜし者はロマ書であった。使徒パウロにより口述せられしこの書はキリスト教の神髄を伝うる書である。」(『ロマ書の研究』大十三)と記述しているように、パウロに傾倒した罪の贖いの信仰でもあった。
 有島が初めて内村に出会った時、彼の強烈な個性に圧倒されながらも「一點ノ誠心人ヲシテ虹ノ如クシタリ」(觀想錄 明三〇・七・十一)と感想を書き込むほどに惹きつけられる。内村の影響で、有島の「真理」への探求心は入信へと駆り立てられ「藭に絶對の服從を爲し得て我れに此歡喜と感謝と勇氣と高情とあり」(『人生の歸趣』(獨立と服從)明三十三・十二)という思いがこみ上げている。有島は、明治三十四年(一九〇一年)三月二十四日札幌独立教会に入会した。しかし明治四十三年(一九一〇年)五月「彼教會ト縁ヲ絶タンヿヲ希フ。」(觀想錄明四十一・一・二十二)と決意をして退会した。わずか一〇年にも満たない信仰時代となった。本発表では、比較項目の中に表れる有島と内村の信仰のずれに着目し、離教に向かう有島の信仰のゆらぎを考察したい。