有島武郎研究会

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第65回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2019年5月29日公開
有島武郎研究会第65回全国大会
【共催】早稲田大学本庄高等学院【後援】本庄市、本庄市教育委員会
《特集 有島武郎、アナキズムとその周辺》

有島武郎研究会の第65回全国大会(2019年度春季大会)を、下記のように開催いたします。参加自由・聴講無料です。ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

  • 日程 2019年6月22日(土)10:00開会・17:00終了
  • 会場 早稲田リサーチパーク・コミュニケーションセンター 4F:レクチャールーム⑵

                    (埼玉県本庄市西富田1011 Tel:0495-24-7455)

  • 〔評議員会〕 12:10〜13:00 於:S407教室
  • 〔総会〕 16:45〜17:00 於:レクチャールーム⑵

===プログラム===

  • 開会の辞(10:00) 

𠮷田 茂(早稲田大学本庄高等学院前院長)


《研究発表1》10:10〜10:55
 (司会)中村 建
有島武郎と日本社会主義同盟について
内田 真木

《研究発表2》11:00〜12:00
 (司会)水島 ひさこ
高群逸枝の長詩『東京は熱病にかゝつてゐる』(一九二五)について
―有島武郎批判とその超え方
江種 満子

〔昼休憩〕12:00〜13:00


《特集 有島武郎、アナキズムとその周辺》
 (司会)木村 政樹

【講演】13:00〜14:00

有島武郎と「鳥取人脈」
鶴見 太郎(早稲田大学)

〔休憩〕14:00〜14:10

【報告】14:10〜15:45

失敗した地理学的アナキスト
荒木 優太

アナキズムと女性解放の論理―伊藤野枝を軸として
中谷 いずみ

残された子、残された親―秋田雨雀を視座として
村田 裕和

〔休憩〕15:45〜15:50

【討論】15:50〜16:40

  • 閉会の辞(16:40) 

佐々木 さよ

〔総会〕16:45〜17:00

【懇親会】18:00〜


→発表要旨は「続きを読む」をクリック

【研究発表 報告要旨】

有島武郎と日本社会主義同盟について
内田 真木
 有島武郎の友人足助素一について、次のような山川菊栄の回想(「私の運動史―歩き始めの頃」)がある。

大正九年の夏から同盟創立の下話があり、当時の青年活動家、近藤憲二、橋浦時雄氏らが熱心にうごいてまとめたものでした。(中略)/社会主義同盟をあれだけ意義のある大きな組織とした陰の人には、まだ発足して幾年にもならなかった出版社叢文閣の主人足助素一氏があります。(中略)[引用者注:足助は]当時べストセラーをつづけた有島の本からはいる収入を惜しげなく、社会主義同盟につぎこんでくれたそうで、「えらい人でしたよ、名前は出さず、恩きせがましいことは一言もいわず、実に気持よく助けてくれました」と晩年の近藤氏はくり返しました。

 日本社会主義同盟は、大逆事件(一九一〇年)以降、壊滅状態にあった社会主義運動の再建を目指し、社会主義者の大同団結を目的として、一九二〇年八月に山川均を中心にして結成された組織。同年一二月、創立大会を開催するが、官憲から激しい弾圧を受け、翌年五月の第二回大会に対しては解散が命じられ、同月、結社禁止となった。社会主義同盟には多くの著作家も加入を表明し、人々から注目された。
 有島は、評論「文芸家と社会主義同盟に就て」(「人間」、一九二〇年一一月)で、著作家の加入表明については「実にあたり前以上にあたり前のこと」としながらも、有島自身については、「私の生活は余りに有産階級者的です。私見た(ママ)やうなものが連盟に這入るのは会の内容を汚します。第二に私は自分の職業上絶対に自由な立場に自分を置きたいと思ひます。将来共にこの方針は続けて行きたいと思ひます。」と述べている。
 橋浦時雄は、有島と親密な関係にあった橋浦泰雄の実弟で、有島と旧知の間柄であった。さらに、日本社会主義同盟の発起人には、有島が評議員を務めていた著作家組合を代表して大庭柯公や小川未明が加わっていた。外にも有島と交流のあった作家や思想家が加入を表明しており、有島が足助の資金援助を是認していた可能性は高いのである。本発表では、有島の社会主義同盟に対する理解と実際行動がいかなるものであったかを、具体的に検証する。

高群逸枝の長詩『東京は熱病にかゝつてゐる』(一九二五)について―有島武郎批判とその超え方
江種 満子
 高群ブームが下り坂になった頃、遅れてきた読者として私は高群を読み始めたが、多頭の怪物のような高群には歯が立たなかった。そのせいでもあろう、職を得て最初に公費で買ったのは10巻本の『高群逸枝全集』だった。そのとき初期高群の長篇詩『東京は熱病にかゝつてゐる』を第8巻で読み、「ふざけるな有島武郎」、と罵倒する最終行に至ってびっくりした。有島研究者としてこれは見過ごせないと思いながらも、ますます高群は面妖になるばかり、いつか私は高群から撤退していた。
 時経て、そろそろ研究者としての幕引きを思う日々、一つの巡り合わせがあって高群から逃れられない事態になってしまった。それならばと、その余勢に乗って、高群が有島批判をしたこの長詩に対して年貢を納めておこうかな、という気になった。
 高群はこの作品を「長篇時事詩」と称したが、ふつうなら「長篇叙事詩」のジャンルであり、また劇詩のような構成ももっている。題材的には関東大震までの数年間に東京を舞台にして生起したスキャンダラスなトピックばかりを、全二十五節の長短の詩篇にしてつなぎ、377ページ(初版)に及ぼうという大作に仕立ててある。
 いまも変わらぬ政財界の腐敗、大杉栄亡き後のアナキズムの衰退とテロリズム化、それに呼応してテロ化する国粋主義の台頭、国家による左翼思想の弾圧、右往左往する学問の府の知識人たちとその恃みがたさ、それらを見る高群の目は、彼女自身の私生活の行き詰まりもあって、尖りに尖る。題材の雑駁さに加えて詩の形式もまた雑駁、嘲罵・皮肉・虚無、何でもありだが、それでも高群はこのテクストは「普遍我」と「熱情」の「無政府的爆発である」と序文で謳った。
 こうした雑駁な世界のど真ん中に、最大のトピック、有島の情死事件への批判が二つの節を跨いで延々と居座っているのである。高群の批判の詳細は発表の場にゆずるとして、声高な批判の表層から一歩身を引いて眺めると、高群の批判には裏側があることに気づく。詩の構成を落ちついて吟味し、揶揄の背後に回り込んでみると、高群は有島の並々ならぬ愛読者だったことがうかがい知れる。ずっと有島武郎を見据えつつ自己形成してきた高群は、先行者有島の最期の瞬間に取り乱しはしたが、じつはそこからどのように自ら立ち直るべきか、見定めようと模索してもいる。( 以上、現段階でのラフな発表目論見である。)

【特集 趣旨・講師プロフィール・報告要旨】

《特集 有島武郎、アナキズムとその周辺》
運営委員会より
 「有島武郎」という問題を現代に接続するためには、どのような視座が有効だろうか――。そう考えたとき、「アナキズム」はひとつの大きな手がかりとして浮上してくるように思える。日本のアナキストといえば、まずもって大杉栄の名前が挙げられるが、その他、世間的にはあまり知られていない活動家たちについても、思想史や社会運動史の分野では膨大な考察が積み重ねられてきた。それらの研究による諸成果と文学研究という領域を接続していくために、「有島武郎研究」は改めて注目されてよいのではないだろうか。
 有島はクロポトキンと会見したことで知られているが、その有島の周りには、たくさんのアナキストたちが行き交っていた。
 また、有島に影響を受けた人々の思想的背景にも、アナキズムの影がちらついてみえる。国境を越えた空間的広がり、世代を越えた時間的広がりのなかでアナキズムは展開された。その言説や人的ネットワークのあり方から学べることは多いはずである。
 あるいは、今日におけるアナキズムの帰趨との関連をどのように考えればよいだろうか。近年、『負債論 貨幣と暴力の5000年』が翻訳刊行されたデヴィッド・グレーバーには、『アナーキスト人類学のための断章』という本がある。同書をはじめとするアナキズムの理論は現代思想として注目を集め続けており、栗原康や森元斎のアナキズム関連の新書も読者を獲得している。過去のテクストを批判的に精読すると同時に、現在の状況についても検討していく必要があるだろう。
戦前のアナキズムを問うことは、現在の左翼のあり方を問うこと、資本主義のなかの私たちの生について考えることとも結びついている。本シンポジウムでは、アナキズムの過去と現在をめぐる活発な議論を期待したい。

【講師プロフィール】

鶴見 太郎(つるみ・たろう)
一九六五年、京都府に生まれる。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。国立民族博物館外来研究員を経て、現在、早稲田大学文学学術院教授。専門は日本近現代史。著書に『柳田国男とその弟子たち』(人文書院)、『橋浦泰雄伝』(晶文社)、『民俗学の熱き日々』(中公新書)、『柳田国男入門』(角川選書)、『座談の思想』(新潮選書)などがある。

【講演要旨】

有島武郎と「鳥取人脈」
鶴見 太郎
 大正中期から後期にいたる有島武郎を取り巻く人間関係を見ていくと、そこに「鳥取人脈」ともいうべき繋がりがあることに気付く。野村愛正(1891―1974)、生田春月(1892―1930)、坂田(橋浦)泰雄(1888―1979)など、いずれも当時、二十代から三十代はじめの多感な時期にあった青年文士たちがこの系列に属する。
 「惜しみなく愛は奪ふ」(1917)において、有島は自らを「愛他的利己主義者」と呼び、同時代の人道主義における自己犠牲的な社会奉仕との距離を表明する。「私の發表したこの思想に、最も直接な示唆を與へてくれたのは阪田泰雄氏である。この機会を以て私は君に感謝する」と謝辞を捧げられている橋浦泰雄が有島の思想に大きな影響を与えたことは、研究史上つとに知られているが、終始郷里の文学仲間との繋がりを保ち続けた橋浦と、その後の有島の動向を重ね合わせる時、そこには個人を通じる以外に、具体的に或る方向性を持った人脈とそこで醸成された思想がみえてくる。
 一九一六年末、有島が選者の一人だった『大阪朝日新聞』主催の懸賞小説に野村の「明けゆく路」が一等となり、翌一九一八年一月、飯田町の料亭で祝賀会が行われる。その際、野村に対し、文壇で地歩を占めるにあたってこれからも決して慢心することなく、初心を忘れぬよう激励した橋浦のスピーチから、出席者を中心に懇話会が結成され、名称は有島の発案で「初心会」となる。会はその後、有島邸で文芸以外にも、時事問題、政治問題などを話し合うが、談論風発する年少の友人たちに交じることは、当時から「家」と個人の問題に苦しんでいた有島にとって、自らが解放される場であったと思われる。

【パネリスト 報告要旨】

失敗した地理学的アナキスト
荒木 優太
 地理学者として有名なエリゼ・ルクリュは、同時に国家による大地の独占を否定するアナキストでもあった。この二つの仕事は決して孤立していない。カール・リッターの講義から地理学に目覚め、それ単独で調和的な全体たりうる地球観をもっていたルクリュにとって、アナキズムが求める支配者なき社会という理想は自然科学的認識にかなうものだったからだ。同じことは、有島が大きな影響を受けたクロポトキンについてもいえる。クロポトキンもまたアナキズムに先んじて地理学者として名をとどろかせ、調査旅行を通じて民衆たちの相互扶助社会を発見するその視線には地理学と革命思想の隣接を読むことができる。では、秋山清『ニヒルとテロル』を筆頭に「アナキスト」として高く評価されることもある有島にとって地理学とはなんだったのか。あまり強調されることはないが農学士の学位をもつ有島にも地理学的教養があった。とりわけ、一九〇四年、ハヴァフォード大学に提出した修士論文「日本文明の発展」では、地形の特徴がその国の文化や国民の性格を決定づけるような人文地理学の知見が論の骨格をかたちづくっている。高山亮二『有島武郎の思想と文学』はその背後に内村鑑三『地人論』(初版の題名は『地理学考』)の受容を読んでいるが、今発表では、より直接に有島が参照し論文のエピグラフにも採用されているアーノルド・ギヨー(Arnold Guyot)の『地球と人間』(Earth and Man)の重要性を指摘したい。ただしギヨーにおいて、大陸がもつ歴史的使命がキリスト教信仰のなかで序列化されるが、有島がその理説をストレートに受け取ったとは思われない。結論からいえば有島にとって地理学は両価的であり、それはおそらくはアナキズムとのクロポトキン的連絡を絶つものであるが、むしろ、その連絡の失敗にこそ有島文学の個性があるのだ、と主張してみたい。

アナキズムと女性解放の論理 ―伊藤野枝を軸として
中谷 いずみ
 伊藤野枝に関する言及は彼女の個性を基盤とするものが多く、今日でもしばしば性的存在としてスキャンダラスに語られる。それはもちろん、葉山日蔭茶屋事件も含む恋愛遍歴や関東大震災後の虐殺など、波乱に満ちた短い生涯や同時代証言から浮かび上がる「伊藤野枝」像が極めて鮮烈な印象を与えるからであろう。
 しかしここでは、個性の問題に還元するのではなく、同時代状況や思想的背景も含めて一九二〇年前後における伊藤野枝の婦人問題に関する言論に目を向けてみたい。この時期の伊藤野枝は出産・育児などの事情もあって活発な動きを見せたとはいえないが、とはいえ「妻」や「母」という自身のありようも含めた女性の問題や女性労働者に関する文章等を発表している。また彼女が表立った活動を見せない一九二〇年前後とは、女性自身が女性の権利問題を政治的社会的課題として捉え、行動し始めた時期でもあった。例えば、一九一九年一一月には平塚らいてうと市川房枝による「新婦人協会」の創立が宣言され、女性の政治的活動を封じる治安警察法第五条修正などを掲げた対議会運動が行われていた。
 また、一九二一年四月には日本最初の社会主義婦人団体といわれる赤瀾会が結成され、さらにのちの一九二三年三月には種蒔き社主催で日本初の国際婦人デー行事として講演会が開催されるなど、社会主義運動の興隆と同時に、女性の解放をめざす運動がさまざまに活発化していく時期でもあった。
この時期、伊藤野枝は赤瀾会顧問として名を連ねているものの積極的に活動したわけではなく、女性解放運動のネットワーク群から少し離れた位置にいたといえるだろう。では、同時代における女性たちの連帯や運動の高まりを背景とした時、伊藤野枝の女性解放論はどのように捉え直すことができるだろうか。
 本発表では、この時期の伊藤野枝の言論を、彼女が私淑したエマ・ゴールドマンの思想や同時代の女性解放運動を参照しつつ、読み解くことを試みる。それを通して、アナキズムと女性解放の論理についても考えてみたい。

残された子、残された親―秋田雨雀を視座として―
村田 裕和
 普段私たちが親子だと考えているものは、本当に親子なのだろうか。男女の性差と同様に、親子もまた遺伝子の差異の一現象にすぎない。一方を親といい、一方を子と呼ぶのは文化的・言語的な慣習にすぎないのではなかろうか。
 有島武郎が〈子〉の個性を重視する「放任主義」を唱えていたことはよく知られているが、同時に彼が、「子供国有論者」を公言していたことは注意すべきである。『惜みなく愛は奪ふ』の終わり近くにも、「親の保護を必要としない社会を予想している」とあって、有島は、遺伝学的な親子が必ずしも社会的な親子関係を帰結するわけではないと考えていたようである。
 「クロポトキンの印象と彼の主義及び思想に就て」においても有島は、クロポトキンの思想をおしはかれば、「子供は国有であり、教育は国家の負担になるでせう」と推測している。「子供国有論」の土台にはアナキズム的な発想があった。
 だがこうした有島の考え方は、国家を前提としている点でアナキズム的というよりも共産主義的である。また、さまざまなテクストで表現されていた親子のありさまは、遺伝的親子の間柄を前提として、親が子を残して死去する状況ばかりに関心が寄せられている。有島はステレオタイプな親子関係にとらわれすぎていたのではないか。
 本発表では、〈子〉の死を繰り返し描いた秋田雨雀(一八八三〜一九六二)のテクストのいくつかを取り上げて、有島の親子イメージとの比較を試みたい。たとえば「国境の夜」では、吹雪の中で救助を断られて妻子を失った男が、救助を断った男の子供たちを殺害しようとする。「骸骨の舞跳」には震災で娘と孫を失った老人が登場する。
 誰かが誰かを残して死ぬ、たとえ遺伝的親子でなくても、残された者に未来が託されるという有島のアナキズム的な相続(相互扶助)理論は、生物学的な世代交代のモデルに依拠しすぎていたのかもしれない。秋田雨雀の物語を視座として、あらためて〈親子〉とは何なのかを考えてみたい。