有島武郎研究会

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第73回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2023年3月26日公開
2023年4月28日会報第72号を公開
有島武郎研究会没後100周年第73回全国大会
《特集 没後100周年―有島武郎晩年の思想》

有島武郎研究会の第73回全国大会(2023年度春季大会)を、下記のように開催いたします。

  • 日程 2023年6月3日(土)10:30開会
  • 会場 軽井沢町中央公民館

およびZoomでの開催(ハイブリッド形式)
【Zoomでの大会参加申し込み】

  • オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードお願いします。
  • 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(6月1日)までに登録を行なってください。
  • お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。

申し込みURL  https://forms.gle/8bpwhpfHQEcGLEvYA

                    

===プログラム===

  • 開会の辞(10:30) 

瀧田浩



《研究発表》10:40〜11:15
有島武郎『迷路』論―Aの身体性をめぐって―
中村建

  • 11:15 昼食休憩
  • 11:20~ 評議員会


《講演》12:00〜13:05
 (司会)梶谷崇
有島武郎と子どもの現代芸術
中村三春(北海道大学大学院教授)
※中村氏の講演はオンライン配信となります



《特集 没後100周年-有島武郎晩年の思想》13:25~14:45
 (司会)奥田浩司


【報告】13:30~14:45

「新興芸術」前夜―有島武郎「或る施療患者」論
石井花奈

階級について語るとはいかなることか―有島武郎と平野謙をめぐって―
木村政樹

有島武郎における思想としての〈晩年〉
村田裕和


【討議】15:00〜15:50


  • 閉会の辞(15:50) 

今井克佳(会長)

  • 2023年度総会(16:00)


===発表要旨===

  • 中村建「有島武郎『迷路』論―Aの身体性をめぐって―」

『迷路』(大七・六)は、有島武郎の小説の中で最も研究されているものの一つであるが、その評価は現在まで定まっていない。それは、『迷路』が、社会/人種/性など様々な問題を含んで錯綜した内容であることもさることながら、P夫人の懐妊が実は虚構であったという設定があるからである。『迷路』の研究は、その懐妊に関する解釈が中心を占め、「妊娠小説」(斎藤美奈子)としての研究史であったと言える。主人公のAはP夫人の懐妊に困惑するかと思えば、ヂュリヤとフロラへの恋愛が失敗すると、今度は胎児に執着するなど、その内面は、混迷を極めている。そのようなAの錯綜ぶりには否定的な評価が多い。
 しかし、そのような混迷は、主語と目的語を明確に示す所謂欧文脈の文体によって、Aの精神の遍歴を丹念に追うことでもたらされるものであり、また、Aの内面と共に彼の身体の変化をも描き出している。ところで、近代の学問が男性を精神/理性、女性を肉体/自然として、男性の身体を普遍的な存在とし、そうではない女性の身体を客体化、特殊化していたことは夙に指摘されている。『迷路』は一見、男性知識人の青年の遍歴という日本近代の男性による文学にありがちな題材ではあるが、Aは決して特権的な地位にはおかれず、むしろ相対化される。つまり、Aの精神の変化と身体の変化は密接に繫がっており、さらに、女性ではないことによって胎児をめぐる情報はP夫人に頼るほかないために混迷を極めることになるのである。
本発表ではAの身体に関する描写を分析しながら、彼の身体と心理状態の連関を指摘し、『迷路』が女性ではない男性の身体に密着した小説であると考える。『或る女』が葉子という子宮を持った女性の身体を描いた小説である一方、『迷路』は子宮を持たない男性の身体をめぐる小説であり、男性の身体こそが普遍的な存在であるということを相対化させるものであると結論づけたい。

  • 中村三春「有島武郎と子どもの現代芸術」

談話「子供の世界」(『報知新聞』一九二二・五・六、七付)において、有島武郎は「大人の僻見」を認め、「私たちは明かに子供と同じ考へ方感じ方をすることは出来ない」と断言している。これは、「一房の葡萄」(『赤い鳥』一九二〇・八)の執筆動機について、「子供の立場から子供の心理を書くといふのにありました」という古川光太郎宛書簡(一九二一・六・九付)で述べた論理の否定であり、その間に発表された「宣言一つ」(『改造』一九二二・一)と軌を一にする自己批判とも受け取れる。「子供の世界」でいう「子供」は、「宣言一つ」の第四階級者に相当する。従って、前者で大人や教師が「子供の世界の中に驚くべき不思議を見出すだらう」と述べるのは、後者の姉妹編である「芸術について思ふこと」(『大観』一九二二・一)において、新興芸術の代名詞としての表現主義の担い手に、「新興の第四階級を予想する」と書いたのと同じような意味を持つことになる。
 子どもを階級としてとらえると言えば大方は疑問を覚えることだろうが、似たような論理は広く一般に受け入れられている。それは、成長という概念である。「一房の葡萄」の結末で、「僕はその時から前より少しいゝ子になり、少しはにかみ屋でなくなつたやうです」の一文を読む時、ああ、この子は「少し」成長したのだな、と読者は感じ取ることだろう。成長する前と成長した後とを別人としてとらえるならば、子どもと大人とは互いに他者であり、比喩的にそれらを階級と見なすこともできなくはないだろう。しかし、本当にそのようなことがあるだろうか。私たちは皆、成長についても階級についても、旧弊な感覚のままに日々を過ごしているのではないだろうか。
 小川洋子の『原稿零枚日記』(二〇一〇・八、集英社)で、八歳の時に私はいったん死に、その「死んだ私は私の中にいるのだ。私は死者となった私と一緒にいるのだ」と語られる。そもそも、子ども、大人、プロレタリアート、ブルジョワジーは、それぞれ一枚岩ではない。それぞれの内部的または外部的に、相互に他者とも、また同胞とも言える。特に、人は皆最初は子どもであったというのが正しいのであれば、その子どもはいったん死んだかも知れないが、今の私の中に一緒にいるのである。子どもを描くことは大人にもでき、現代芸術を展開することは芸術家の出自にかかわらずできるのだ。しかも、それらはいずれも他者(同胞)から何かを奪って行う営為にほかならない。「一房の葡萄」の僕は、ジムから絵具を奪ったではないか。「惜みなく愛は奪ふ」と主張したのは、いったい誰だったのだろうか。
 一八七八年生まれの有島武郎は、画家・音楽家のパウル・クレーより一歳年長の同時代人であった。一九四〇年に病死したクレーも長生したわけではないが、大胆に子どもの感性をも開花させて現代アートを展開した。現代芸術は、いわば子どもの芸術である。有島武郎に一九三〇年代は訪れなかった。本講演では、子どもと現代芸術を二つの焦点とする楕円として、有島武郎の様式について再検討する。これは、論者自身の『新編 言葉の意志 有島武郎と芸術史的転回』(二〇一一・二、ひつじ書房)の論旨に対する自己批判であり、また展開への契機でもある。

  • 石井花奈「「新興芸術」前夜―有島武郎「或る施療患者」論」

『泉』第二巻第二号(一九二三年二月、叢文閣)に掲載された「或る施療患者」は、有島武郎が活動の場を個人雑誌に移してから第二作目となる小説である。本作は「乱世」に翻弄される原亀吉の一人称視点の物語であるが、作品末尾の付記において筆記者「私」の存在が唐突に明かされる。目次に「小説」「創作」と明記された作品のいずれにも作家自身を想起させずにはおかない人物が登場するのに対し、「或る施療患者」の「私」は筆記者として物語の外に位置しているのであり、本作はその構造からして他の掲載作品とは位相を異にする。
この額縁小説の形式がとられていたのが、中絶された「運命の訴へ」(一九二〇年八月起稿・九月中絶、生前未発表)である。上総国の宿屋で泊まり合わせた青年・佐間田信次が遺していった「ノート・ブック」の「不思議な記録」を、小説家である「私」が「転載」するという形式の物語で、その手記には彼の生家がある農村「谷(やと)」の「十軒の百姓家で起つた忌はしいこと」(その内、原稿に記されたのは四軒)と、彼自身の家族の悲惨な「運命」とが記されている。
本発表は、「運命」の超克というテーマ、それを描くためのモチーフに「略奪」の論理、伝染病、童心の喪失があることから、「運命の訴へ」における試みを多分に引き継いだ作品として「或る施療患者」を位置づけようとするものである。「運命の訴へ」中絶によってそれまでの創作理念を決定的に失ったはずの有島は、その後いかにして作品を書き、そこで何を試みていたのか。「第四階級」(「宣言一つ」一九二二年一月)の問題を文学としていかに扱おうとしていたのか。有島武郎晩年の思想をこのような観点から考える契機となるよう努めたい。

  • 木村政樹「階級について語るとはいかなることか―有島武郎と平野謙をめぐって―」

文芸批評史の研究においては一般に、作家が何を具体的に問題化したのかを特定することが重要である。だが、そうしたアプローチは、往々にして周辺との関係を分析することに留まってしまう。個人やグループといった単位に限定せずに批評史を記述するためには、たとえば遂行的に示された問いの所在を読み取ることが有効なのではないか。
 そこで本発表では、晩年の有島武郎が、《階級について語るとはいかなることか》という問いを示したという説を提出したい。また、有島没後の有島論/階級論の連関を追いつつ、その記念碑的なメルクマールとして、「「政治の優位性」とは何か」などの平野の戦後批評を同様の観点から取り上げたい。
 有島は「宣言一つ」その他の論考で、階級について語るというゲームのルールを、身をもって生きた。その営為が孕む屈曲には、ゲームのルールについての問いが(非‐主題的に)示されているように思う。他方、平野はプロレタリア文学の批判的検討を行なったが、それもまた別の形で階級論のルールを問うたものであった。平野の論の構えはいわゆる「日本近代文学研究」の方法にも通じるものであり、過ぎ去った運動を再解釈する行為を伴っていた。
 一見したところ、両者のテクストは別の属性に区分されるかもしれない。たとえば、有島が書いたものは文芸批評/知識人論であるのに対し、平野のそれは文学研究/文学史である、というように。だが、両者の実践はともに、階級概念を運用して自己を形作ろうとしたものであり、そのプロセスには知と主体をめぐるネットワークの回路が成立していた。ここで重要なのは、見かけ上のジャンル的な差異に還元せずに、自己や主体に関わる言説を対象領域として取り出すことである。こうした言説研究の理論的な問題についてもまた、有島と平野のテクストを通して吟味してみたい。

  • 村田裕和「有島武郎における思想としての〈晩年〉」

有島武郎に字義通りの晩年があったのか。晩年を「老齢期」と解釈するなら、四五歳で自死した人物に晩年を認めることは難しい。一方、事後的かつ相対的に「死に近い時期」を晩年とするなら、有島にも若すぎた晩年があったといえよう。作家の生涯や作品の全体を、前期・中期・後期などと区分することはよくあり、当会でも第七〇回大会でこの三区分をふまえたパネル発表が行われた(『会報』第六九号参照)。有島に晩年があり得るとすれば「後期」がそれに近いわけだが、「晩年」という言葉には「後期」の言い換え以上の何かがつきまとう。
 たとえば、虐殺された平沢計七や小林多喜二に晩年を認めることはためらわれる。強いられた死を是認するように感じられるからだろう。また、震災で亡くなった厨川白村や事故死した渡辺温のように、差し迫った死を予見できずに死んだ人物の晩年を議論することはナンセンスではないか。事後的・相対的に「死に近い時期」であるにせよ、当人が自己の死を遠くない未来のものとして生々しく意識する時間が「晩年」には必要であり、少なくともそのような時間の厚みにおいて、自死であれ病死であれ当事者が自身の死を所有していたと想像し得る場合にのみ、私たちはその人物の「晩年」を語ることができるのではなかろうか。
 ところが周知の通り、有島のテクストには、「小さき者へ」のように親から子に残された言葉があり、「死と其前後」のように親の死を描きつつ、子を失う親という要素が内包された戯曲もある。農場解放にあたって示された「小作人への告別」もいわば遺言であった。このように、有島は繰り返し次世代への遺言を語り、遺産相続の可能性と不可能性をめぐる思考を展開していた。最初の短篇集を『晩年』と称した太宰治のように、有島もまた仮構された〈晩年〉を自覚的に生きていたようにさえ見える。本発表では、有島武郎における思想としての〈晩年〉について考察する。