有島武郎研究会

有島武郎研究会の運営する公式ブログです。

第76回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2024年10月3日公開
有島武郎研究会第76回全国大会

有島武郎研究会の第76回全国大会(2024年度秋季大会)を、下記のように開催いたします。

  • 日程 2024年11月2日(土)13:00開会
  • 会場 オンライン

【Zoomでの大会参加申し込み】

  • オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードお願いします。
  • 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(10月30日)までに登録を行なってください。
  • お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。

申し込みURL  https://forms.gle/qp2fZRSk7JR6EDuX6

                    

===プログラム===

  • 開会の辞(13:00) 

木村政樹(運営委員長)



《特集 『白樺』派が演じる、『白樺』派を演じる》13:05~15:35
 (司会)中村建


【報告】13:10~14:20

イプセン・ゾラ・謡 そしてnobless oblige
井上理惠

ファーブル『昆虫記』はなぜ日本の知識人たちを魅了したのか?―クロポトキン『相互扶助論』との関連性からの一考察
杉淵洋一

大衆文化に射す『白樺』派の影―式場隆三郎の〈アブノーマル〉へのまなざしを手がかりに
竹内瑞穂

  • 14:25~14:35 休憩・質問募集

【討議】14:35〜15:35


  • 閉会の辞(15:35) 

阿部高裕(会長)

  • 事務局連絡


===発表要旨===
○特集

  • 運営委員会より

 トルストイ、イプセン、メーテルリンク、エマソン、ホイットマン、ゴーリキー、クロポトキン……。有島武郎をはじめ『白樺』派の人々が影響を受けたとされる作家や思想家は、主だった名前を挙げるだけでも相当な数となるだろう。先達の研究者たちの努力もあり、『白樺』派の人々が誰のどのような作品・思想を受容したのかという点については、かなり細かいレベルまで明らかにされてきた。たとえば有島武郎の場合、アメリカ合衆国留学の際にイプセンの演劇を受容し、その後の作品に影響を与えたことはよく知られている。しかし、こうした影響/受容という図式は、しばしば両者の関係を一方通行的な枠組みのなかに押し込め、そこからはみ出すような部分を正当に評価することをときに難しくしてしまう。
 そこで本特集では、『白樺』派に関連する文学・思想を検討するにあたって、〈演じる〉という視座を導入してみたい。人がある物語を演じる場面を考えてみよう。たとえ台本や演出家によって語る言葉や動きが指示されていたとしても、各自の身体と思考とを持つ役者という存在が介在する以上、程度の差はあってもそこには指示を超え出るような部分が避けがたく生じてしまう。だが多くの場合、物語をより豊かなものにするのは、まさにそうしたズレなのである。そうであるとすれば、考察すべきなのは、表現の場において模倣によって生成されていくものが何であったのか、翻案(アダプテーション)する過程で生み出されていったものは何かという点となるだろう。
 また、これまで『白樺』派研究では「自己」というテーマが注目されてきたが、この問題もまた演じることと何らかの関係性がありそうだ。たとえば『白樺』派作家たちは、作家としての「自己」をどのように演じてきたのだろうか。また、同時代あるいは後世の同調者たちは、『白樺』派作家たちの作品を読んで、いかに「自己」を演じることとなったのか。近代演劇とも深い関わりを持つ『白樺』派をめぐる、パフォーマティブな表現の多様性について、皆さんと一緒に考えてみたい。

  • 井上理惠「イプセン・ゾラ・謡 そしてnobless oblige」

有島武郎(一八七八~一九二三)は、一九世紀末のフランス文学界に投げかけたゾラ(一八四〇~一九〇二)の戯曲「テレーズ・ラカン」(一八七三)を読んだという仮説がわたくしにはある。さらに踏み込むと戯曲「老船長の幻覚」、小説「或る女」にテレーズの影をみる。イプセンに戯曲を書かせたゾラを踏まえた上でのイプセン論であったと思う。
 「過去は死んだ。われわれは未来を見なければいけない。(略)その未来は、リアリティの枠のなかで研究された人間の諸問題をこそ、あつかわなければならない」
 舞台上には〈生物実験のプレパラートに相当する「人生の截片」(section)を描出する、可能な限り「真」に近いことが必要〉とゾラは説いた。
 有島は「自分の劇の稽古を見て」(一九一八)で語る(自分の劇とは「死と其の前後」)。
 「人間の生活は、見る眼さへあれば、如何なる斷面を拾ひ上げても、其儘戯曲的だ。變つた約束などを加へる必要は一つもない。見る眼考へる頭さへあれば、それは其儘戯曲となる。作者が大きな激情的な場面を主題に選ぶのは、それが十分の考察を加へる事なしにも、觀客の注意を集め易いからだとさへ云へる。」
 ゾラは「実験小説論 Le Roman expéerimental」(一八八〇)を発表、文芸におけるnaturalismeが一九世紀を席捲した。ここから有島の創作へ向かう姿勢も分かる。
 「人間を、客観的に、すなわち社会学的・生理的・病理学的‥‥に、つまり、「科学」的に眺めようとしていたことが、特徴の一つとして指摘されてもよいかと思います。そして、こうした特徴は、19世紀前半記から19世紀後半期にいたる文化全体に見られるはず」(渡辺一夫『へそ曲がり フランス文学』光文社一九六一)
 が、réalismeやnaturalismeだけでなくromantismeも体験している。謡である。父は薩摩弁を矯正する意図もあり稽古をし、母は楽しみで向かい、有島はおつきあいで稽古した。謡の世界はロマンに溢れている。劇構成もréalismeとは異なる。アッパークラスの世界であった。「宣言一つ」で閉じこもらず一九世紀フランスに登場したnoblesse obligeを遂行していたら自死はなかった。
 有島は〈演じる〉ことなく〈真〉に生きてしまった。

  • 杉淵洋一「ファーブル『昆虫記』はなぜ日本の知識人たちを魅了したのか? ―クロポトキン『相互扶助論』との関連性からの一考察」

有島武郎が「相互扶助」という言葉を特に大切にした作家であることは多言を待たないであろう。そして、その事実の背景として、有島がクロポトキンの『相互扶助論』からの強い影響を受けていたことも広く知られたことである。一九〇七年二月、有島は三年半にわたる欧米遊学の総決算として、ロンドン郊外のスミレの館と呼ばれたクロポトキンの亡命先を尋ね、クロポトキン本人からクロポトキン著作の日本語訳の許可を得ている。しかしながら、有島は翻訳を果たせないままに、一九二三年六月、鬼籍に入るが、その『相互扶助論』は、一九一七年に、有島が援助を惜しまなかった大杉栄の手によって翻訳されている。
 ここで注目したいのは、大杉が『相互扶助論』の翻訳者であったばかりでなく、本邦最初のファーブル『昆虫記』の翻訳者でもあったという点である。大杉は一九二二年一〇月に、足助素一が経営する叢文閣より『昆虫記』第一巻を刊行するが、周知のように大杉は、翌年、関東大震災後に虐殺され、第二巻以降の出版は一旦暗礁に乗り上げてしまう。この窮地を救ったのがフランスから一時帰国していた椎名其二であり、椎名は大杉の遺志を受け継いで、第二巻(一九二四年)から第四巻(一九二六年)を日本語に翻訳する。椎名がフランスに帰国した後は、五巻、六巻を鷲尾猛、七巻、八巻を木下半治、九巻を小牧近江が担当し、一九三一年一〇月、土井逸雄の手によって一〇巻が上梓され、一連の翻訳は完結している。ファーブルによる『昆虫記』は、昆虫の科学的な生態、特にその「相互扶助」的な世界を描き出した書籍であると同時に、作品の文学的な価値も高く評価されており、大杉をはじめとする日本の翻訳者たちは、その点に魅了されていったのではないだろうか。そして、この動きが武者小路実篤の新しき村など、白樺派同人たちの動向と密接につながったものであったことも容易に想像することができる。
 そこで本発表では、ファーブル『昆虫記』のフランス語から日本語への翻訳の過程を追いながら、その書籍のうちに展開されている昆虫たちの「相互扶助」的な世界観が、翻訳者たちによってどのようにアレンジされて行ったのか、翻訳者たちと有島武郎との関係、当時のヨーロッパにおける日本人と当地の人々との関係に光を当てながら、当時の日本においてファーブルの『昆虫記』が訳されなければならなかった必然性を僅かばかりでも明らかにできれば幸いである。

  • 竹内瑞穂「大衆文化に射す『白樺』派の影―式場隆三郎の〈アブノーマル〉へのまなざしを手がかりに」

 精神科医を本業としながらも、随筆集や啓蒙書などを生涯で二〇〇冊近く刊行した式場隆三郎(一八九八―一九六五)は、日本における初期ゴッホ研究の第一人者、また戦後においては山下清の実質的プロデューサーとしても知られるが、その多彩な文化活動の起点となったのが『白樺』派との出会いだった。新潟での医学生時代に『白樺』の衛星誌『アダム』を創刊(一九一九)し、翌年「新しき村」新潟支部を設立。震災後には柳宗悦の興した民藝運動の主要メンバーとなり、その発展に大きく寄与している。
 文筆家としての式場が得意としたのが、専門とする精神医学の知見を用いた〈アブノーマル〉な芸術家の分析であった。精神病患者が建てさせた奇抜な家屋を論じてベストセラーとなった『二笑亭綺譚』(一九三九)において、式場は病むがゆえに生み出された独自の〈芸術〉のなかに「常人の心にひそむ意欲の勇敢な発現」をみる。〈個性〉の徹底が、より普遍的な価値へと通じていくという発想は、『白樺』誌上で武者小路実篤らが展開した議論とも響き合うものだろう。『白樺』派の理念を、時と場合に応じて台本や自らの役を切り替えつつも、大衆向けメディアという舞台の上で演じ続けた人物。それが式場だったのではないだろうか。
 本発表では、式場の戦間期のテクストを軸にして、『白樺』派の理念が大衆文化のなかでどのように演じられていったのかを追跡していく。大衆という観客の視線や欲望を取り込んだ式場のテクスト/演技が浮かび上がらせるのは、厳しい見方をすれば通俗化を経た『白樺』派の残照でしかない。しかし、この時期の式場には途切れることなく原稿依頼が舞い込んできていた事実を踏まえるのならば、そのような通俗化した『白樺』派こそがこの時代・社会に求められていたともいえよう。『白樺』派からの大衆文化への影響にとどまらず、前者を変容させつつも求め続けた後者のあり方についても考察してみたい。