2024年5月15日公開
有島武郎研究会第77回全国大会
有島武郎研究会の第77回全国大会(2025年度春季大会)を、下記のように開催いたします。
- 日程 2024年6月14日(土)12:00開会
- 会場 新宿歴史博物館(東京都新宿区)講堂およびオンライン
- 〔評議員会〕 11:00〜11:40(大会会場に同じ)
- 開場 11:40
【Zoomでの大会参加申し込み】
- オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードお願いします。
- 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(6月12日)までに登録を行なってください。(準備ができ次第、申込URLとプログラム・会報を公開いたします)
- お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。
- 申込URL:申込URL
- プログラム:第77回全国大会プログラム
- 会報第76号:会報第76号
- アクセスマップ : 新宿区立新宿歴史博物館
===プログラム===
- 開会の辞:木村政樹(運営委員長)(12:00)
《研究発表》12:05〜12:45
一九二三年から一九四五年までの足助素一の事績と叢文閣の出版活動について
内田真木
- 15分休憩
《特集 『白樺』派研究の視座を問い直す――昭和期の武者小路実篤の活動を中心に――》13:00~15:30
(司会)奥田浩司
【報告】13:05~14:20
雑誌『世界』『心』から捉える昭和の白樺派
井上萌香『楽園の子等』・『大東亜戦争私感』・『愚者の夢』――戦中から戦後にかけての武者小路実篤の変移――
瀧田浩武者小路実篤における「楠木正成」像と教育の影響
𠮷本弥生
- 14:20~14:30 休憩・質問募集
【討議】14:30〜15:30
- 閉会の辞:阿部高裕(会長)(15:30)
- 事務局連絡
- 総会(15:40)
===発表要旨===
○研究発表
- 内田真木「一九二三年から一九四五年までの足助素一の事績と叢文閣の出版活動について」
一九二三年から一九四五年までの足助素一の事跡と叢文閣の出版活動について検討する。論点は次の四点である。第一、足助が出版業を志した時期と具体的な取り組みについて検討する。足助と出版業との関係は一九〇八年まで遡ることができる。足助は貸本屋独立社創業(一九〇八年五月)と並行して、北海教育画報社を立ち上げ、有島武郎等の援助を受けながら出版にも取り組んでいた。ちなみに、一九一〇年四月二三日には、河内寛治に宛てて「科学と文学と社会学との理想的専門出版をやりたい」と書き送っている。
第二、一九二二年以降の叢文閣の経営体制、具体的には出版部の設置と出版物の選定を合議制にしたことが叢文閣の出版活動にどのような変化をもたらしたかを検証する。一九一八年九月の創業以来、叢文閣は『有島武郎著作集』(第六~一五輯)の発刊を中心に出版活動を展開してきた。しかし、一九二二年に至って、足助は有島の作品を優先する出版活動からの脱却を計る必要に迫られたのである。なお、ここで、個人名を冠した定期刊行物の個人雑誌「泉」(一九二二年一〇月創刊)と同じく個人名を冠した叢書(もしくは不定期刊行物)の『有島武郎著作集』は出版社の刊行物としては両立し得ないことを検証したいと考えている。
第三、『有島武郎全集』刊行の経緯について確認する。足助によれば、関東大震災によって叢文閣は「十万円を超へ」(原久米太郎宛書簡、一九二三年九月一〇日)る損害を被ったという。そこで、叢文閣は『有島武郎全集』全一二巻を発刊するために、『有島武郎著作集』を刊行していた新潮社ではなく、予約出版の実績がある国民図書株式会社と岩波書店から支援を受けたのである。ちなみに、足助は岩波茂雄の親友であったという。
第四、左翼系出版社としての叢文閣の出版活動について検討する。『足助素一集』(私家版、一九三一年)の「年表」には、一九二七年のこととして 「此頃より時代の趨勢に鑑み左翼方面の著作出版に着眼す。」(七二九頁)の一節がある。一方、甘露寺八郎こと大宅壮一は「リベラリストとしての叢文閣、足助素一氏の左翼物への転換―これ等は総て、山川均、堺利彦氏等の「マルクス主義」が発行された大正十三年末―」(「出版書肆鳥瞰論(二)」、『綜合ヂャーナリズム講座』Ⅵ、内外社、一九三一年、三五二頁)と指摘している。さらに、大宅は「叢文閣は経済批判会訳の不定期刊行物、ヴェルガの「世界経済年報」を独占し、一方、専門的にプロレタリア芸術の翻訳物を出版」(同前、三五七頁)とも述べている。叢文閣の特筆すべき事業がヴァルガ著「世界経済年報」全三一の刊行であることは間違いないが、翻訳を担当した「経済批判会」は足助が自らの人脈を生かして編成した翻訳者集団(冬木圭、瓜生信夫、益田豊彦、高山洋吉ら)と考えられるのである。前述の山川や堺だけでなく、秋田雨雀、高村光太郎、橋浦泰雄、西川豊吉らが叢文閣の出版事業を援助していたのである。だからこそ、足助の死後(一九三〇年一〇月二九日)も叢文閣は一九四四年まで事業を継続することができたのだ。なお、妻の足助たつは医師免許(一九四一年)を取得し、開業医として後半生を送っていた。
○特集
- 奥田浩司「発表趣旨」
これまでの『白樺』派研究では、雑誌『白樺』の主な刊行時期である「大正」に焦点が当てられてきたといえるだろう。それに対して本特集では、『白樺』派研究の視座を問い直すため、「昭和」の武者小路実篤の活動に注目してみたい。
「昭和」とは、どのような時代だったのだろうか。社会的な出来事としては、昭和恐慌、満州国建国、日中戦争、アジア・太平洋戦争、敗戦、GHQの占領、新憲法発布などが思い浮かぶ。経済的な困窮の解決を侵略戦争に求め、敗北し、新たな政治体制を構築した時代と言ってよいであろう。
雑誌『白樺』が廃刊したのは大正一二年であり、ここで同人グループとしての『白樺』派の活動は終わりを告げる。その後、文学の潮流はプロレタリア文学、文芸復興、日本浪曼派などを経て、敗戦後の文学へと行き着くことになる。
では「昭和」の渦中で、『白樺』派を出自とする武者小路はどのような文学的営為をなし、社会的な発言を行ったのであろうか。そして、武者小路の言説をどのように捉え直すことができるのであろうか。
様々なアプローチが可能であるが、例えば次のようなことが考えられるであろう。まず大正から昭和にかけて言説状況との関わりを視野に収め、武者小路と時代との関わりを問い直すことがあげられる。他方、『大東亜戦争私感』などで明らかなように、武者小路は戦時下の政治に加担していくことになる。このような時代との関係性を、どのように理解すればよいだろうか。同時代の時代思潮を視野に収め、考察を加える必要があるように思う。
戦後の時期で興味深いのは、敗戦後すぐの昭和二一年に創刊された雑誌『世界』との関わりである。宮越勉「敗戦後の志賀直哉―「特攻隊再教育」から「閑人妄語」まで―」(『文芸研究』第一二八号、二〇一六年二月)によれば、志賀は「三年会」のメンバーとして、「敗戦後の国内混乱防止について話し合う懇談会」に武者小路と共に参加していたという。「三年会」の後継である「同心会」は、雑誌『世界』(岩波書店)の創刊にも協力した。加えて興味深いのは、武者小路は昭和二三年に雑誌『心』を主宰したことである。このように敗戦後の論壇にもまた『白樺』派の命脈が息づいているのだが、武者小路は敗戦をどのように受け止め変容していったのであろうか。
二〇二〇年代の私たちの社会もまた、経済的不平等や知識人と大衆の乖離など、「昭和」に問題化されたテーマを解決するに至っていない。歴史は繰り返すと言うが、当該期の武者小路の再検討によって、私たちの現在に何らかの示唆を得ることができるかも知れない。
- 井上萌香「雑誌『世界』『心』から捉える昭和の白樺派」
白樺派には大正の印象が強い。雑誌『白樺』の創刊から廃刊までと大正期がほぼ重なることが一因であるだろう。しかし『白樺』廃刊後も同人の活動は続くのであり、「昭和」における集団としての白樺派を追うことには一種の可能性がある。
「昭和」を語るには戦争を避けて通れない。『白樺』はロダン、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンといった西洋美術を紹介し、加えてトルストイを筆頭に西洋思想からの影響も強く受けている。有島武郎をはじめ実際に渡米・渡欧経験をもつ同人もいるほか、ロダンとの交流など実体験を通した西洋との交流が盛んだった。では、第二次世界大戦下においてアメリカやフランスが敵国となるなかで、彼らはどんな立場をとったのだろうか。戦争の激化と敗戦を経験し、戦後どのような活動を模索していったのだろうか。『白樺』の中心人物である武者小路実篤が関わった雑誌から紐解いていきたい。
さて、戦後昭和二一年一月には総合雑誌『世界』が創刊される。これは敗戦を経て新しい総合雑誌の発刊を望んだ岩波茂雄と、戦後の日本文化再建に向けて活動の場を必要とした「同心会」の協力によるものだ。「同人会」には武者小路実篤、志賀直哉らも参加していた。けれども二年後、「同心会」は『世界』とは別に『心』をもつに至る。
『心』は昭和二三年七月に創刊された実篤主宰の雑誌である。実篤は『白樺』後も殆ど途切れることなく雑誌を主宰した。美術展覧会が開かれた『大調和』が昭和二年四月から昭和三年一〇月まで、個人雑誌『獨立人』が昭和三年一一月から昭和五年六月というように、それぞれの雑誌は一、二年程で廃刊となる。短期間での雑誌刊行を繰り返したのちに誕生するのが『心』である。
本発表では、武者小路実篤が創刊に関わった『世界』と彼が主宰した雑誌『心』を中心に実篤ら白樺派がどのような戦後文壇を模索したか分析し、「昭和」の白樺派を再考する。
- 瀧田浩「『楽園の子等』・『大東亜戦争私感』・『愚者の夢』――戦中から戦後にかけての武者小路実篤の変移――」
武者小路実篤は明治一八(一八八五)年に生まれ、昭和五一(一九七六)年に亡くなった(享年九〇歳)。大津山国夫は『武者小路実篤研究―実篤と新しき村―』(一九九七年、明治書院)の「後記に代えて」で、武者小路の活動時期を、前期(明治・大正期)=①トルストイ時代(一九〇四~一九〇七)、②個我の時代(一九〇八~一九一七)、③新しき村時代(一九一八~一九二五)/後期(昭和期)=④真人の時代(一九二六~一九四五)、⑤大愛の時代(一九四六~一九七六)に分ける仮説を提示している。『白樺』による文化運動・第一次大戦時における非戦の言説・新しき村の営為など歴史に刻まれるようなことは前期に集中している。①で昂揚した他者と社会への志向は、②で苛烈な自己への志向と衝突しながら強度を上げ、武者小路独特の文学・思想・行動が生み出された。大正が終わるとともに、武者小路は新しき村を去り、後期としての昭和期(④・⑤)が始まる。
④は「戦中」、⑤は「戦後」と言い換えた方が、批評的な問題は鮮明になる。「戦中」に書かれた『大東亜戦争私感』(一九四二年、河出書房)が代表する武者小路の戦争肯定発言がかつての個人主義・非戦主義・理想主義を覆し、彼の評価は下落する。武者小路研究の骨格を作った本多秋五と大津山国夫にあっても、関心の中心は明確に前期にあり、戦中は最初から研究対象から除外されていた。本多は小学館版『武者小路実篤全集 第十五巻』(一九九〇年)の「解説」で、もしも発表当時に「『大東亜戦争私感』や『三笑』を読んだら、〔略〕それ以後は武者小路の書くものに一顧も払わなくなっていただろう」と回想し、大津山は『武者小路実篤論―「新しき村」まで―』(一九七四年、東京大学出版会)の「あとがき」で「『白樺』の個人主義の限界は、その後の歴史によって実証された」と躊躇なく記している(ただし、大津山は小学館版『武者小路実篤全集 第十四巻』(一九九〇年)の「解説」で、戦中から戦後にかけての武者小路について本格的な論考を書いている)。
後期武者小路を研究する足場を作るべく、今回の発表では戦中と戦後直後の書き下ろし作品、『楽園の子等』(一九四〇年、甲鳥書林)・『大東亜戦争私感』(一九四二年、河出書房)・『愚者の夢』(一九四六年、河出書房)を中心に取り上げる。上記の中では『大東亜戦争私感』の戦争発言が有名であるが、三作は創作と感想を往還する自由な形式である点、戦中・戦後におよそ似つかわしくない楽観的な未来が詳しく描かれている点などにおいて共通している。発表では武者小路の戦争に対する発言の検証をおこなうとともに、そこにとどまらず、戦中から戦後にかけての時期における武者小路の変移について検証したい。
- 𠮷本弥生「武者小路実篤における「楠木正成」像と教育の影響」
今回の特集では、武者小路実篤の「昭和」に焦点を当てるということである。発表者は、長年、武者小路実篤とその作品を研究してきたが、ここ数年の課題として、彼の戦時期を検討する必要があると考え、調査を継続している。その最中、今回のお話をいただいたが、未だ『大東亜戦争私感』(一九四二年)に言及する段階にはない。それは、武者小路のこの時期を検討するまでには、彼の受けた教育を先に考察する必要があると考えたからである。そのため、今回は、武者小路の偉人像が形成されていく過程を確認するため、彼の作品『楠木正成』を扱う。
武者小路が楠木正成の「伝記小説」を発表したのは、一九二三年(『中央公論』第三八巻第四号)が最初である。その後、一九三七年、一九四二年にも発表した。ただし、一九三七年版は、その他の作品とは全編を通じて異なるものに仕上がっている。今回の発表では、これらの作品を比較し、加えて、武者小路世代が受けた教育をあわせて考察する。
同時代評は、一九二六年の正宗白鳥「文藝時評」(『中央公論』第四十一年第一号、一九二六年一月)に、武者小路の楠木正成を含めた内容で単純な英雄崇拝と言及しているものがある。
先行研究には、谷田博幸『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか-非常時日本の楠公崇拝』(河出書房新社、二〇一九年)があり、そこには、武者小路の『楠木正成』(大日本雄弁会講談社、一九三七年)に関して、「問題は、武者小路がこの小説で、陛下のために死ぬことを「最も美しい死」として賛美していることだろう」との言及がある。ここに見る英雄崇拝や天皇のために死ぬことを賛美する皇国の精神は、先の大戦で日本軍によるプロパガンダとして利用され、国民が総動員で戦争協力を余儀なくされた皇国史観を意味するだろう。
本発表では、武者小路実篤の『楠木正成』をめぐるこの問題を取り上げ、彼の作品を分析することで、戦前は非暴力主義の武者小路が、先の日本の戦争を肯定する方向へ向かう契機の一端として、当時の教育が彼とその作品に及ぼした影響を検討したい。