2025年10月7日公開
2025年10月31日会報第77号を公開
有島武郎研究会第78回全国大会
有島武郎研究会の第78回全国大会(2025年度秋季大会)を、下記のように開催いたします。
- 日程 2025年11月29日(土)12:15開会
- 会場 オンライン
【Zoomでの大会参加申し込み】
- オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードをお願いします。
- 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(11月27日)までに登録を行なってください。
- お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。
申し込みURL https://forms.gle/tdcoFNWiDXvUQ9Rd9
- プログラム:第78回全国大会プログラム
- 会報第77号:会報第77号
===プログラム===
(総合司会)瀧田浩
- 開会の辞(12:15)
石井花奈(運営委員長)
《研究発表》12:20〜14:05
追悼⽂が「創作」になる時――志賀直哉「沓掛にて」におけるジャンル横断性
貴田航
武者⼩路実篤「お⽬出たき⼈」論―カスタマイズ戦略が拓く「空間」の多層性―
大島あるる
東北帝国⼤学農科⼤学における⻄洋戯曲の受容
中村建
- 15分休憩
《特集 神様はどこにいるの?――志賀直哉短編小説再読》14:20~17:00
(司会)荒木優太
【報告】14:25~15:40
志賀直哉・芥川龍之介・太宰治――「小僧の神様」と「小説の神様」をめぐって
小谷瑛輔神様は「彼」の⼼のなかに―志賀直哉「⼩僧の神様」試読―
下岡友加非-戦後文学としての志賀直哉『灰色の月』――「昭和二十年十月十六日」の「私」の感性
⼭⼝直孝
- 15:40~16:00 休憩・質問募集
【討議】16:00〜17:00
- 閉会の辞(17:00)
梶谷崇(会長)
===発表要旨===
○研究発表
- 貴田航「追悼⽂が「創作」になる時――志賀直哉「沓掛にて」におけるジャンル横断性」
志賀直哉の自作に対する言及の中には、文芸ジャンルを巡る内容が散見される。その最たるものは、「続創作余談」という文章において「豊年虫」という作品に寄せた、「「豊年虫」のやうな物は何と云つていいものか自分でもよく分らない。私では創作と随筆との境界が甚だ曖昧だ」という主張である。志賀研究においては、この主張を根拠として文芸ジャンルの曖昧さを志賀文学の特徴と見なす議論が展開されている。
しかし、この議論に関して問われるべき論点が二つある。一つ目は、志賀文学において文章を「創作」たらしめる要素とは何かという点である。志賀は「続創作余談」で先に引用した主張を残しているが、その一方で「革文函」や「青臭帖」といった文章の中で「創作」と「随筆」とを区別するような発言も残している。こうした志賀の言及に定位しながら作品群を読み直すことで、志賀が何を「創作」の要と捉えていたかを明らかにすることは可能である。
二つ目は、ジャンル区分の事後的かつ恣意的生成である。ジャンルの境界が曖昧に見える作品であっても、全集などに収録される際には、それがいかなるジャンルの文章であるかという規定を受けずにはいられない。こうしたジャンル規定の働きに着目すると、「創作」か「随筆」かの区別がつきにくいジャンルの曖昧さが、全集等への収録によって事後的ないし恣意的に形成された可能性を十分に考えることができる。
本発表では、以上に挙げた二つの論点を解明するにあたって、「沓掛にて」という文章に焦点を当てる。「沓掛にて」は一九二七年の『中央公論』九月号において、同年七月に亡くなった芥川龍之介の追悼文として発表されたものである。しかし、この追悼文は後の全集において、「創作」として収録されることが主流となっている。「沓掛にて」を巡るこうしたジャンル横断性を分析することによって、二つの論点を考究するための一つの視座を構築することが本発表の眼目である。
- 大島あるる「武者⼩路実篤「お⽬出たき⼈」論―カスタマイズ戦略が拓く「空間」の多層性―」
日露戦争後の激動を極める時代の中、一九一〇(明治四三)年二月、武者小路実篤の「お目出たき人」は脱稿され、翌年に洛陽堂より刊行された。当時主流であった、人間の醜さをありのままに描く自然主義文学に対し、世間から「世間知らず」と嘲笑されながらも、武者小路は社会の厳しさを知った上で、あえて「お目出度く思ふ」ことを意識的に選び取るのだと表明したのである。
本研究はこうした歴史的背景によって従来の研究で陥りがちであった作家・武者小路実篤と語り手「自分」の癒着を排し、作品内の語り手「自分」の自律的なあり方と、彼が展開する「カスタマイズ戦術」に着目する。
まず、「自分」が「迷い、選び取る」という能動的な行為を通じて、いかに自己のアイデンティティを確立していくのかを考察する。この「カスタマイズ戦術」は、名前の語られない「自分」が現実の矛盾や不安を乗り越え、「お目出たい」着地点へと至るまでの揺らぎの中で編み出される。これは、単なる楽観性ではなく、閉塞感の中で「幸福の回路」を見出すための戦術でもある。
さらに、「カスタマイズ戦術」が作品内の「空間」にいかなる影響を与えるのかを深掘りする。ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』の視点を援用し、テクストに登場する官僚都市「山の手」のような客観的な物理空間が、語り手「自分」の主観や行為を通じて、心理的、社会的、そして物語的な意味を持つ多層的な「空間」へと能動的に拓かれていく様を解明する。
本研究は、作家と語り手を峻別し、「自分」という語り手の「カスタマイズ戦術」と、それによって多層的に拓かれる「空間」に着目することで、「お目出たき人」に新たな表情を浮かび上がらせることを目指すものである。
- 中村建「東北帝国⼤学農科⼤学における⻄洋戯曲の受容」
東北帝国大学農科大学予科教員時代の有島武郎が「ブランド」を同校の学生団体の雑誌『文武会々報』(明治四二・六~明治四五・四)に寄稿したことは、日本における初期のイプセンの紹介として夙に知られている。日本近代文学、そしていわゆる北海道文学において重要な位置を占める作家による文章だけに、これまで些か過大視されてきたきらいがある。しかしながら、『帝国文学』に陸続と創作を発表していた吹田順助(号・蘆風)、詩人として活躍した秋元喜久雄(吹田と同じく、号・蘆風)、後に未来派を紹介した佐久間政一といった同僚も、戯曲を中心とする西洋文学に関する記事を盛んに寄稿していた。この影響を受けてか、学生による戯曲の投稿が目立つようになる。また、同大学の寄宿舎の有志による雑誌『辛夷』にも同様の傾向が見られる。さらに、「しさべのめかり」名義で「日本に於けるイプセン劇の誤訳を嗤ふ」(『新日本』大正三・八~大正四・三)を発表した海藻学者・遠藤吉三郎もこの大学の教員であった。
このように、有島の職場の大学には少なからぬ文学者がいたのである。有島が小説「かん〳〵虫」を差し置いて、戯曲「老船長の幻覚」(『白樺』明治四三・七)を最初の創作として発表したことは、当時の同大学において戯曲が積極的に受容されていたこととも無関係ではないと思われる。
本発表では、まず、『文武会々報』および同大学寄宿舎の有志による雑誌『辛夷』における、教員による西洋演劇を中心とする紹介文について検討する。次に、両誌に掲載された学生による戯曲について取り上げる。最後に、「日本に於けるイプセン劇の誤訳を嗤ふ」と教員による紹介文の終焉について考察する。以上の内容を通して、有島の作家としての出発期における東北帝国大学農科大学関係者の重要性を論じるとともに、明治末から大正初期における戯曲の受容の一端を示したい。○特集
- 荒木優太「特集趣旨」
本研究会では、名作を一つ指定し、研究者たちに集中的な再読をしてもらう企画をかつて組んだことがある。今回は志賀直哉の短編小説を対象として、作品選定は登壇者に委ねることとした。
たとえば『白樺』一九二〇(大正九)年一月号に掲載された『小僧の神様』。いわずと知れた志賀の代表作で、「小説の神様」の異名もここに由来するといわれている。小谷瑛輔「志賀直哉はいかにして「小説の神様」と呼ばれるようになったか」(『国語と国文学』、二〇二三年七月)によれば、先行研究が示すとおり、その最初期の使用は川端康成の志賀評に求められるが、そこでの用法はストレートな賛辞というより、もはや小説の神様ではない、といった否定的レトリックのもと卓越/凡庸の地図を再編しようとするねじれた言説的実践であったようだ。
それにしても、「小説の神様」からはじまって、FGO(歴史上の偉人や神話のキャラクターを召喚して戦うソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』の略称)にしても、流行語「神ってる」にしても、開放的でときに軽薄にもみえる日本人の宗教感覚には改めて驚かされる。数ある志賀の名短編のなかでも特別いわくつきになった上述の経緯も、「神様」に関する受け手の側の日本的宗教観と無縁ではないだろう。
にも拘らず、テクスト本文に還っていえば、小僧にとっての予想外のギフトは貴族院議員のAによる計らいによるものだったし、贈り主の正体を確かめようとした先で「稲荷の祠」を見つけるというエンディングは、「少し惨酷な気がして来た」ので書かないという「作者」の配慮によって回避される。テクストはむしろ神の不在を強く印象づける。神とは、様々な階層や年齢層や職業の人々が同居する都市生活のなかで必然的に生じる情報の非対称性を応急的に埋める説明材料にすぎない。政府より社会に信を寄せるリバタリアンなら、『小僧の神様』を超越的なものの措定を禁じながらも個人のチャリティーによって再分配の疑似的再現を試みる小説と読むかもしれない。
いうまでもなく、一つの感想である。再読すればするほど新しい読み方を見せてくれるからこそ名作は名作たりえている。『小僧の神様』に限らず、志賀直哉の短編小説は現代の読者にどのような触発をもたらすのか。志賀文学と出会いなおす機会となることを期待しつつ、若い人たちの積極的な発言・参加を歓迎したい。
- 小谷瑛輔「志賀直哉・芥川龍之介・太宰治――「小僧の神様」と「小説の神様」をめぐって」
志賀直哉「小僧の神様」(大九・一)は、志賀の二つ名「小説の神様」の由来ではないかとまことしやかに語られてきた作品である。もっとも実際には、「小説の神様」の初期の用例を見る限り、それらしい様子はないようだ。しかしそうであるにしても、「小僧の神様」は、志賀の「小説の神様」としてのあり方といくつかの面で関わりを持った作品だと言うべきだろう。本発表では、芥川龍之介、太宰治という補助線を引きつつ、「小説の神様」志賀直哉と小説「小僧の神様」の関係について再考する。
物語内容のレベルから言えば、「小僧の神様」では、貧しい者に恵みを与える存在が「神様」として空想されるわけだが、その「神様」性は、いわゆる「神の視点」から作品世界を作り出す「作者」の権能と作中で重ねられている。「小僧の神様」は、芥川龍之介の「芋粥」(大五・九)や「南京の基督」(大九・七)との関係が論じられてきたが、「小僧の神様」の上述の語りの構造を称賛(「大正九年度文壇上半期決算」大九・七)していた芥川は、晩年には自らの「神」への志向とその断念について、志賀を念頭に置きつつ語るようになる(「河童」昭二・三、「文芸的な、余りに文芸的な」昭二・四、「或旧友へ送る手記」昭二・七、「或阿呆の一生」昭二・一〇など)。そしてこの問題はやがて、自殺に際して「何が神様だ」(「如是我聞(四)」昭二三・七)と志賀に反発してみせた太宰治に引き継がれていくことになる。
ここにはもちろん、登場人物の想像、語りの焦点化、作者の持つ創作の権能、文学の価値、小説家についての評価、と、多くの異なるレベルの問題が錯綜している。小説は、そうした多様なレベルを複雑に巻き込む自己言及的な対象化の運動であり得るものであって、言語や小説の醍醐味はそこにこそある、というのが発表者の立場だが、今回は、「小説の神様」と「小僧の神様」が絡み合う歴史を見ていきながら、その様相の一端を捉えてみたい。
- 下岡友加「神様は「彼」の⼼のなかに―志賀直哉「⼩僧の神様」試読―」
「小僧の神様」は志賀の代表的短編の一つと位置づけられているが、先行研究においては「否定的な評価や疑問が目立つ」(鷺只雄「「南京の基督」新攷―芥川龍之介と志賀直哉―」『文学』、一九八三・八)、「名作として論評したものが意外にも乏しい」(宮越勉「「小僧の神様」を精読する―接近と隔絶の線対称構造分析を中心に―」『文芸研究』第一一二号、二〇一〇・一〇)のが実状である。私は以前、同じ作者の「暗夜行路」について「「暗夜行路」が「名作」である「客観的な証拠」は、その「否定的根拠の指摘」に比して十分に明かされているとは言えない」(拙著『志賀直哉の方法』笠間書院、二〇〇七・二)ことを批判したが、同様の違和感を「小僧の神様」を取り巻く言説の数々に抱かざるを得なかった。そこで本発表では、テクストの持つ固有の方法から本小説の魅力を追究する。
具体的にはまず、本小説が二人の中心人物を設けながら、途中から貴族院議員Aの方に重点が移行しているとの批難があるが、そのような把握自体が〈清明さ〉を身上とする本テクストの特性に誘導された結果に他ならないことを明らかにする。また、施す/施されるというAと小僧(仙吉)の上下関係についても少なからぬ批難が見受けられるが、それはテクストが提示する最終的な仙吉の思念により実質逆転している(救われているのはAの方である)ことを述べる。さらに、「作者」が登場するテクスト末尾の記述は、偶然の乱発によって小説がお伽噺に堕することを回避するためにあるのではなく、時間経過とともに仙吉自身が自ら育み、生の支えとした神を尊重するため、それより劣るプロット(=既製の神への着地)をあえて語るトリックに他ならないことを論じる。つまり、本特集タイトル「神様はどこにいるの?」に応答するならば、神様はAその人というより、仙吉によって、その心に育まれたという読みに基づき、本小説の再評価を試みるものである。
- ⼭⼝直孝「非-戦後文学としての志賀直哉『灰色の月』――「昭和二十年十月十六日」の「私」の感性」
『灰色の月』は、一九四六年一月、『世界』創刊号に発表された掌編である。『淋しき生涯』(『中央公論』一九四一年七月、四二年一月)以来となる本作は、アジア太平洋戦争敗戦後における志賀の最初の創作として注目された。山手線の電車で遭遇した飢餓状態の少年工に対して「私」が、気にしながら何も行動しないことについては、周知のように、同時代から意見が分かれている。荒正人「民衆とはたれか」(『近代文学』一九四六年四月)の「エゴイズムとヒューマニズムの対決といふ、陳腐ではあるが、解き難い問題を提起してゐるのだ。が、解決の糸口は全然あたへられてゐない」という言葉には、「ヒューマニズム」を軸とした当時の評価のありようがうかがえる。「簡潔極まる名文」でありつつ、「『創作』で通用するものではあるまい」(大西巨人「〈小説展望〉貧困の創作欄」(『文化展望』一九四六年四月)と論難される短さも含め、形象や主題の限界が指摘されてきたことは、考察の前提とされねばならない。
『世界』創刊の母胎となった同心会との関わりなどから独自の戦後意識を読み取る(高口知史)、題材の取捨選択や対比に構成意識を見出す(宮越勉)、といった先行研究の成果を参照しながら、本発表では、改めて内在的分析を試みる。「私」は、年齢も氏名も明らかではない。エッセー「銅像」(『改造』一九四六年一月)や「国語問題」(『改造』同年四月)の「吾々」、あるいは、「大津」と友人から呼ばれる『蝕まれた友情』(『世界』一九四七年一月~四月)の「僕」とは、異質の存在として、「私」を考える必要がある。前後に発表されたものと比較しながら、『灰色の月』の表現とそれを支える「私」の感性の独自性を可視化してみたい。「暗澹たる気持」をもたらした「私」の体験は、戦後固有のものとして示されてはおらず、本作は「戦後文学」という枠を外してとらえるのが適当ではないか、というのが現時点での見通しである。