2025年11月17日公開
- 有島武郎研究会第79回全国大会の発表者を下記により募集いたします。ふるってご応募ください。
- 日程 2026年6月6日(土)
- 会場 二松学舎大学(東京都千代田区、予定)
※ハイブリッドにて開催予定です。
- 発表時間 25分
- 応募要領 題目・要旨(800字程度)を添えて、事務局連絡先(運営委員会)までメールでお送りください。
- 締切 2026年2月28日
2025年11月17日公開
※ハイブリッドにて開催予定です。
2025年10月7日公開
2025年10月31日会報第77号を公開
有島武郎研究会第78回全国大会
有島武郎研究会の第78回全国大会(2025年度秋季大会)を、下記のように開催いたします。
- 日程 2025年11月29日(土)12:15開会
- 会場 オンライン
【Zoomでの大会参加申し込み】
- オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードをお願いします。
- 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(11月27日)までに登録を行なってください。
- お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。
申し込みURL https://forms.gle/tdcoFNWiDXvUQ9Rd9
- プログラム:第78回全国大会プログラム
- 会報第77号:会報第77号
===プログラム===
(総合司会)瀧田浩
- 開会の辞(12:15)
石井花奈(運営委員長)
《研究発表》12:20〜14:05
追悼⽂が「創作」になる時――志賀直哉「沓掛にて」におけるジャンル横断性
貴田航
武者⼩路実篤「お⽬出たき⼈」論―カスタマイズ戦略が拓く「空間」の多層性―
大島あるる
東北帝国⼤学農科⼤学における⻄洋戯曲の受容
中村建
- 15分休憩
《特集 神様はどこにいるの?――志賀直哉短編小説再読》14:20~17:00
(司会)荒木優太
【報告】14:25~15:40
志賀直哉・芥川龍之介・太宰治――「小僧の神様」と「小説の神様」をめぐって
小谷瑛輔神様は「彼」の⼼のなかに―志賀直哉「⼩僧の神様」試読―
下岡友加非-戦後文学としての志賀直哉『灰色の月』――「昭和二十年十月十六日」の「私」の感性
⼭⼝直孝
- 15:40~16:00 休憩・質問募集
【討議】16:00〜17:00
- 閉会の辞(17:00)
梶谷崇(会長)
===発表要旨===
○研究発表
- 貴田航「追悼⽂が「創作」になる時――志賀直哉「沓掛にて」におけるジャンル横断性」
志賀直哉の自作に対する言及の中には、文芸ジャンルを巡る内容が散見される。その最たるものは、「続創作余談」という文章において「豊年虫」という作品に寄せた、「「豊年虫」のやうな物は何と云つていいものか自分でもよく分らない。私では創作と随筆との境界が甚だ曖昧だ」という主張である。志賀研究においては、この主張を根拠として文芸ジャンルの曖昧さを志賀文学の特徴と見なす議論が展開されている。
しかし、この議論に関して問われるべき論点が二つある。一つ目は、志賀文学において文章を「創作」たらしめる要素とは何かという点である。志賀は「続創作余談」で先に引用した主張を残しているが、その一方で「革文函」や「青臭帖」といった文章の中で「創作」と「随筆」とを区別するような発言も残している。こうした志賀の言及に定位しながら作品群を読み直すことで、志賀が何を「創作」の要と捉えていたかを明らかにすることは可能である。
二つ目は、ジャンル区分の事後的かつ恣意的生成である。ジャンルの境界が曖昧に見える作品であっても、全集などに収録される際には、それがいかなるジャンルの文章であるかという規定を受けずにはいられない。こうしたジャンル規定の働きに着目すると、「創作」か「随筆」かの区別がつきにくいジャンルの曖昧さが、全集等への収録によって事後的ないし恣意的に形成された可能性を十分に考えることができる。
本発表では、以上に挙げた二つの論点を解明するにあたって、「沓掛にて」という文章に焦点を当てる。「沓掛にて」は一九二七年の『中央公論』九月号において、同年七月に亡くなった芥川龍之介の追悼文として発表されたものである。しかし、この追悼文は後の全集において、「創作」として収録されることが主流となっている。「沓掛にて」を巡るこうしたジャンル横断性を分析することによって、二つの論点を考究するための一つの視座を構築することが本発表の眼目である。
- 大島あるる「武者⼩路実篤「お⽬出たき⼈」論―カスタマイズ戦略が拓く「空間」の多層性―」
日露戦争後の激動を極める時代の中、一九一〇(明治四三)年二月、武者小路実篤の「お目出たき人」は脱稿され、翌年に洛陽堂より刊行された。当時主流であった、人間の醜さをありのままに描く自然主義文学に対し、世間から「世間知らず」と嘲笑されながらも、武者小路は社会の厳しさを知った上で、あえて「お目出度く思ふ」ことを意識的に選び取るのだと表明したのである。
本研究はこうした歴史的背景によって従来の研究で陥りがちであった作家・武者小路実篤と語り手「自分」の癒着を排し、作品内の語り手「自分」の自律的なあり方と、彼が展開する「カスタマイズ戦術」に着目する。
まず、「自分」が「迷い、選び取る」という能動的な行為を通じて、いかに自己のアイデンティティを確立していくのかを考察する。この「カスタマイズ戦術」は、名前の語られない「自分」が現実の矛盾や不安を乗り越え、「お目出たい」着地点へと至るまでの揺らぎの中で編み出される。これは、単なる楽観性ではなく、閉塞感の中で「幸福の回路」を見出すための戦術でもある。
さらに、「カスタマイズ戦術」が作品内の「空間」にいかなる影響を与えるのかを深掘りする。ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』の視点を援用し、テクストに登場する官僚都市「山の手」のような客観的な物理空間が、語り手「自分」の主観や行為を通じて、心理的、社会的、そして物語的な意味を持つ多層的な「空間」へと能動的に拓かれていく様を解明する。
本研究は、作家と語り手を峻別し、「自分」という語り手の「カスタマイズ戦術」と、それによって多層的に拓かれる「空間」に着目することで、「お目出たき人」に新たな表情を浮かび上がらせることを目指すものである。
- 中村建「東北帝国⼤学農科⼤学における⻄洋戯曲の受容」
東北帝国大学農科大学予科教員時代の有島武郎が「ブランド」を同校の学生団体の雑誌『文武会々報』(明治四二・六~明治四五・四)に寄稿したことは、日本における初期のイプセンの紹介として夙に知られている。日本近代文学、そしていわゆる北海道文学において重要な位置を占める作家による文章だけに、これまで些か過大視されてきたきらいがある。しかしながら、『帝国文学』に陸続と創作を発表していた吹田順助(号・蘆風)、詩人として活躍した秋元喜久雄(吹田と同じく、号・蘆風)、後に未来派を紹介した佐久間政一といった同僚も、戯曲を中心とする西洋文学に関する記事を盛んに寄稿していた。この影響を受けてか、学生による戯曲の投稿が目立つようになる。また、同大学の寄宿舎の有志による雑誌『辛夷』にも同様の傾向が見られる。さらに、「しさべのめかり」名義で「日本に於けるイプセン劇の誤訳を嗤ふ」(『新日本』大正三・八~大正四・三)を発表した海藻学者・遠藤吉三郎もこの大学の教員であった。
このように、有島の職場の大学には少なからぬ文学者がいたのである。有島が小説「かん〳〵虫」を差し置いて、戯曲「老船長の幻覚」(『白樺』明治四三・七)を最初の創作として発表したことは、当時の同大学において戯曲が積極的に受容されていたこととも無関係ではないと思われる。
本発表では、まず、『文武会々報』および同大学寄宿舎の有志による雑誌『辛夷』における、教員による西洋演劇を中心とする紹介文について検討する。次に、両誌に掲載された学生による戯曲について取り上げる。最後に、「日本に於けるイプセン劇の誤訳を嗤ふ」と教員による紹介文の終焉について考察する。以上の内容を通して、有島の作家としての出発期における東北帝国大学農科大学関係者の重要性を論じるとともに、明治末から大正初期における戯曲の受容の一端を示したい。○特集
- 荒木優太「特集趣旨」
本研究会では、名作を一つ指定し、研究者たちに集中的な再読をしてもらう企画をかつて組んだことがある。今回は志賀直哉の短編小説を対象として、作品選定は登壇者に委ねることとした。
たとえば『白樺』一九二〇(大正九)年一月号に掲載された『小僧の神様』。いわずと知れた志賀の代表作で、「小説の神様」の異名もここに由来するといわれている。小谷瑛輔「志賀直哉はいかにして「小説の神様」と呼ばれるようになったか」(『国語と国文学』、二〇二三年七月)によれば、先行研究が示すとおり、その最初期の使用は川端康成の志賀評に求められるが、そこでの用法はストレートな賛辞というより、もはや小説の神様ではない、といった否定的レトリックのもと卓越/凡庸の地図を再編しようとするねじれた言説的実践であったようだ。
それにしても、「小説の神様」からはじまって、FGO(歴史上の偉人や神話のキャラクターを召喚して戦うソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』の略称)にしても、流行語「神ってる」にしても、開放的でときに軽薄にもみえる日本人の宗教感覚には改めて驚かされる。数ある志賀の名短編のなかでも特別いわくつきになった上述の経緯も、「神様」に関する受け手の側の日本的宗教観と無縁ではないだろう。
にも拘らず、テクスト本文に還っていえば、小僧にとっての予想外のギフトは貴族院議員のAによる計らいによるものだったし、贈り主の正体を確かめようとした先で「稲荷の祠」を見つけるというエンディングは、「少し惨酷な気がして来た」ので書かないという「作者」の配慮によって回避される。テクストはむしろ神の不在を強く印象づける。神とは、様々な階層や年齢層や職業の人々が同居する都市生活のなかで必然的に生じる情報の非対称性を応急的に埋める説明材料にすぎない。政府より社会に信を寄せるリバタリアンなら、『小僧の神様』を超越的なものの措定を禁じながらも個人のチャリティーによって再分配の疑似的再現を試みる小説と読むかもしれない。
いうまでもなく、一つの感想である。再読すればするほど新しい読み方を見せてくれるからこそ名作は名作たりえている。『小僧の神様』に限らず、志賀直哉の短編小説は現代の読者にどのような触発をもたらすのか。志賀文学と出会いなおす機会となることを期待しつつ、若い人たちの積極的な発言・参加を歓迎したい。
- 小谷瑛輔「志賀直哉・芥川龍之介・太宰治――「小僧の神様」と「小説の神様」をめぐって」
志賀直哉「小僧の神様」(大九・一)は、志賀の二つ名「小説の神様」の由来ではないかとまことしやかに語られてきた作品である。もっとも実際には、「小説の神様」の初期の用例を見る限り、それらしい様子はないようだ。しかしそうであるにしても、「小僧の神様」は、志賀の「小説の神様」としてのあり方といくつかの面で関わりを持った作品だと言うべきだろう。本発表では、芥川龍之介、太宰治という補助線を引きつつ、「小説の神様」志賀直哉と小説「小僧の神様」の関係について再考する。
物語内容のレベルから言えば、「小僧の神様」では、貧しい者に恵みを与える存在が「神様」として空想されるわけだが、その「神様」性は、いわゆる「神の視点」から作品世界を作り出す「作者」の権能と作中で重ねられている。「小僧の神様」は、芥川龍之介の「芋粥」(大五・九)や「南京の基督」(大九・七)との関係が論じられてきたが、「小僧の神様」の上述の語りの構造を称賛(「大正九年度文壇上半期決算」大九・七)していた芥川は、晩年には自らの「神」への志向とその断念について、志賀を念頭に置きつつ語るようになる(「河童」昭二・三、「文芸的な、余りに文芸的な」昭二・四、「或旧友へ送る手記」昭二・七、「或阿呆の一生」昭二・一〇など)。そしてこの問題はやがて、自殺に際して「何が神様だ」(「如是我聞(四)」昭二三・七)と志賀に反発してみせた太宰治に引き継がれていくことになる。
ここにはもちろん、登場人物の想像、語りの焦点化、作者の持つ創作の権能、文学の価値、小説家についての評価、と、多くの異なるレベルの問題が錯綜している。小説は、そうした多様なレベルを複雑に巻き込む自己言及的な対象化の運動であり得るものであって、言語や小説の醍醐味はそこにこそある、というのが発表者の立場だが、今回は、「小説の神様」と「小僧の神様」が絡み合う歴史を見ていきながら、その様相の一端を捉えてみたい。
- 下岡友加「神様は「彼」の⼼のなかに―志賀直哉「⼩僧の神様」試読―」
「小僧の神様」は志賀の代表的短編の一つと位置づけられているが、先行研究においては「否定的な評価や疑問が目立つ」(鷺只雄「「南京の基督」新攷―芥川龍之介と志賀直哉―」『文学』、一九八三・八)、「名作として論評したものが意外にも乏しい」(宮越勉「「小僧の神様」を精読する―接近と隔絶の線対称構造分析を中心に―」『文芸研究』第一一二号、二〇一〇・一〇)のが実状である。私は以前、同じ作者の「暗夜行路」について「「暗夜行路」が「名作」である「客観的な証拠」は、その「否定的根拠の指摘」に比して十分に明かされているとは言えない」(拙著『志賀直哉の方法』笠間書院、二〇〇七・二)ことを批判したが、同様の違和感を「小僧の神様」を取り巻く言説の数々に抱かざるを得なかった。そこで本発表では、テクストの持つ固有の方法から本小説の魅力を追究する。
具体的にはまず、本小説が二人の中心人物を設けながら、途中から貴族院議員Aの方に重点が移行しているとの批難があるが、そのような把握自体が〈清明さ〉を身上とする本テクストの特性に誘導された結果に他ならないことを明らかにする。また、施す/施されるというAと小僧(仙吉)の上下関係についても少なからぬ批難が見受けられるが、それはテクストが提示する最終的な仙吉の思念により実質逆転している(救われているのはAの方である)ことを述べる。さらに、「作者」が登場するテクスト末尾の記述は、偶然の乱発によって小説がお伽噺に堕することを回避するためにあるのではなく、時間経過とともに仙吉自身が自ら育み、生の支えとした神を尊重するため、それより劣るプロット(=既製の神への着地)をあえて語るトリックに他ならないことを論じる。つまり、本特集タイトル「神様はどこにいるの?」に応答するならば、神様はAその人というより、仙吉によって、その心に育まれたという読みに基づき、本小説の再評価を試みるものである。
- ⼭⼝直孝「非-戦後文学としての志賀直哉『灰色の月』――「昭和二十年十月十六日」の「私」の感性」
『灰色の月』は、一九四六年一月、『世界』創刊号に発表された掌編である。『淋しき生涯』(『中央公論』一九四一年七月、四二年一月)以来となる本作は、アジア太平洋戦争敗戦後における志賀の最初の創作として注目された。山手線の電車で遭遇した飢餓状態の少年工に対して「私」が、気にしながら何も行動しないことについては、周知のように、同時代から意見が分かれている。荒正人「民衆とはたれか」(『近代文学』一九四六年四月)の「エゴイズムとヒューマニズムの対決といふ、陳腐ではあるが、解き難い問題を提起してゐるのだ。が、解決の糸口は全然あたへられてゐない」という言葉には、「ヒューマニズム」を軸とした当時の評価のありようがうかがえる。「簡潔極まる名文」でありつつ、「『創作』で通用するものではあるまい」(大西巨人「〈小説展望〉貧困の創作欄」(『文化展望』一九四六年四月)と論難される短さも含め、形象や主題の限界が指摘されてきたことは、考察の前提とされねばならない。
『世界』創刊の母胎となった同心会との関わりなどから独自の戦後意識を読み取る(高口知史)、題材の取捨選択や対比に構成意識を見出す(宮越勉)、といった先行研究の成果を参照しながら、本発表では、改めて内在的分析を試みる。「私」は、年齢も氏名も明らかではない。エッセー「銅像」(『改造』一九四六年一月)や「国語問題」(『改造』同年四月)の「吾々」、あるいは、「大津」と友人から呼ばれる『蝕まれた友情』(『世界』一九四七年一月~四月)の「僕」とは、異質の存在として、「私」を考える必要がある。前後に発表されたものと比較しながら、『灰色の月』の表現とそれを支える「私」の感性の独自性を可視化してみたい。「暗澹たる気持」をもたらした「私」の体験は、戦後固有のものとして示されてはおらず、本作は「戦後文学」という枠を外してとらえるのが適当ではないか、というのが現時点での見通しである。
2025年7月15日公開
会報研究業績欄への投稿フォーマット
- 有島武郎研究会会員の業績のうち、2024(令和6)年9月から現在までに発表されたものを収録する。業績は有島武郎関係のものに限らない。
- 各業績には記号を付す。単行本はA、雑誌・単行本等収録論文はB、その他(種別としては、「研究ノート」「書評」「口頭発表」「項目執筆」「解題」等)はCとする。Cに関しては、タイトルの前に種別を付す。
- Aは書名、出版社、発行年月の順で、Bは論文等タイトル、書名・雑誌名、発行年月の順で、Cは、種別、タイトル、発表媒体・発表会名、発行・発表の年月(日)の順で記す。
- 掲載紙誌の巻号は省略する。雑誌・単行本は発行年月のみ、新聞・会報等は発行年月日を記す。
- 原則として、Cの種別、執筆項目等の詳細、編者名・発行所名等は、会員の届け出に記載されたものを記す。
- 用字は、会員届け出の記載に拠る。
- 単行本、雑誌、新聞のタイトルは『 』、それ以外の論文等のタイトルについては「 」とする。
- 注記等は( )で示す。
- 年月日を表す場合は、漢数字を用いる。年号は西暦に統一する。西暦は下二桁のみを記す。二一年一〇月一一日、といったように表記し、「千」「百」「十」は用いないことに統一する。
- ダッシュは「―」とする。
例)
鈴木太郎
- A『有島武郎の文学』●●社、二三年九月
- B「『或る女』論―葉子に注目して―」『●●大学紀要』、二三年一〇月
- B「『或る女』に関する試論」●●編『有島武郎と近代日本』●●社、二三年一〇月
- C口頭発表「有島武郎の文学」(●●年度●●学会全国大会 於●●大学)、二四年一月一日
会報研究業績欄への投稿要領
- 会員研究業績欄フォーマットのダウンロード
- 投稿締切 2025年8月末日
- 送り先 arishima-unei-2025コピー後ここに半角アットマークを入力してくださいgooglegroups.com
1.会長 梶谷崇
2.幹事会 梶谷崇(代表幹事)、石井花奈、掛野剛史、山田順子
3.運営委員会 石井花奈(運営委員長)、阿部高裕、荒木優太、井上萌香、何雯、髙橋采花、瀧田浩、中村建、村田裕和
4.編集委員会 掛野剛史(編集委員長)、今井克佳、奥田浩司、上牧瀬香、下岡友加、杉淵洋一、吉本弥生、渡邉千恵子
5.会計 山田順子
6.会計監査 内田真木
7.評議員 阿部高裕、石井花奈、石田仁志、今井克佳、奥田浩司、梶谷崇、掛野剛史、片山礼子、何雯、上牧瀬香、木村政樹、佐々木さよ、三田憲子、杉淵洋一、瀧田浩、村田裕和、山田順子、渡邉千恵子
『有島武郎研究』第28号が発刊されました。
購入ご希望の方は、◇機関誌『有島武郎研究』購入方法をごらんください。
『有島武郎研究』第28号目次
- [論文]有島武郎『宣言』論―偽善者の物語―/何雯
- [論文]『泉』と『文藝春秋』のあいだ―有島武郎と菊池寛―/掛野剛史
- [論文]『白樺』派を演じる―式場隆三郎の個性観と大衆文化―/竹内瑞穂
- [資料紹介]望月桂の自筆ノートについて/内田真木
- [書評]有島武郎・木田金次郎プロジェクト編『『生れ出づる悩み』を読む 有島武郎と木田金次郎のクロスロード』/上牧瀬香
- [書評]大田正紀著『日本近代文学と聖書』/三田憲子
- [書評]瀧田浩著『武者小路実篤文学の構造と同時代状況』/寺澤浩樹
- [書評]山口直孝著『大西巨人論―マルクス主義と芸術至上主義』/中村建
- [彙報]活動記録
2024年5月15日公開
有島武郎研究会第77回全国大会
有島武郎研究会の第77回全国大会(2025年度春季大会)を、下記のように開催いたします。
- 日程 2024年6月14日(土)12:00開会
- 会場 新宿歴史博物館(東京都新宿区)講堂およびオンライン
- 〔評議員会〕 11:00〜11:40(大会会場に同じ)
- 開場 11:40
【Zoomでの大会参加申し込み】
- オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードお願いします。
- 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(6月12日)までに登録を行なってください。(準備ができ次第、申込URLとプログラム・会報を公開いたします)
- お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。
- 申込URL:申込URL
- プログラム:第77回全国大会プログラム
- 会報第76号:会報第76号
- アクセスマップ : 新宿区立新宿歴史博物館
===プログラム===
- 開会の辞:木村政樹(運営委員長)(12:00)
《研究発表》12:05〜12:45
一九二三年から一九四五年までの足助素一の事績と叢文閣の出版活動について
内田真木
- 15分休憩
《特集 『白樺』派研究の視座を問い直す――昭和期の武者小路実篤の活動を中心に――》13:00~15:30
(司会)奥田浩司
【報告】13:05~14:20
雑誌『世界』『心』から捉える昭和の白樺派
井上萌香『楽園の子等』・『大東亜戦争私感』・『愚者の夢』――戦中から戦後にかけての武者小路実篤の変移――
瀧田浩武者小路実篤における「楠木正成」像と教育の影響
𠮷本弥生
- 14:20~14:30 休憩・質問募集
【討議】14:30〜15:30
- 閉会の辞:阿部高裕(会長)(15:30)
- 事務局連絡
- 総会(15:40)
===発表要旨===
○研究発表
- 内田真木「一九二三年から一九四五年までの足助素一の事績と叢文閣の出版活動について」
一九二三年から一九四五年までの足助素一の事跡と叢文閣の出版活動について検討する。論点は次の四点である。第一、足助が出版業を志した時期と具体的な取り組みについて検討する。足助と出版業との関係は一九〇八年まで遡ることができる。足助は貸本屋独立社創業(一九〇八年五月)と並行して、北海教育画報社を立ち上げ、有島武郎等の援助を受けながら出版にも取り組んでいた。ちなみに、一九一〇年四月二三日には、河内寛治に宛てて「科学と文学と社会学との理想的専門出版をやりたい」と書き送っている。
第二、一九二二年以降の叢文閣の経営体制、具体的には出版部の設置と出版物の選定を合議制にしたことが叢文閣の出版活動にどのような変化をもたらしたかを検証する。一九一八年九月の創業以来、叢文閣は『有島武郎著作集』(第六~一五輯)の発刊を中心に出版活動を展開してきた。しかし、一九二二年に至って、足助は有島の作品を優先する出版活動からの脱却を計る必要に迫られたのである。なお、ここで、個人名を冠した定期刊行物の個人雑誌「泉」(一九二二年一〇月創刊)と同じく個人名を冠した叢書(もしくは不定期刊行物)の『有島武郎著作集』は出版社の刊行物としては両立し得ないことを検証したいと考えている。
第三、『有島武郎全集』刊行の経緯について確認する。足助によれば、関東大震災によって叢文閣は「十万円を超へ」(原久米太郎宛書簡、一九二三年九月一〇日)る損害を被ったという。そこで、叢文閣は『有島武郎全集』全一二巻を発刊するために、『有島武郎著作集』を刊行していた新潮社ではなく、予約出版の実績がある国民図書株式会社と岩波書店から支援を受けたのである。ちなみに、足助は岩波茂雄の親友であったという。
第四、左翼系出版社としての叢文閣の出版活動について検討する。『足助素一集』(私家版、一九三一年)の「年表」には、一九二七年のこととして 「此頃より時代の趨勢に鑑み左翼方面の著作出版に着眼す。」(七二九頁)の一節がある。一方、甘露寺八郎こと大宅壮一は「リベラリストとしての叢文閣、足助素一氏の左翼物への転換―これ等は総て、山川均、堺利彦氏等の「マルクス主義」が発行された大正十三年末―」(「出版書肆鳥瞰論(二)」、『綜合ヂャーナリズム講座』Ⅵ、内外社、一九三一年、三五二頁)と指摘している。さらに、大宅は「叢文閣は経済批判会訳の不定期刊行物、ヴェルガの「世界経済年報」を独占し、一方、専門的にプロレタリア芸術の翻訳物を出版」(同前、三五七頁)とも述べている。叢文閣の特筆すべき事業がヴァルガ著「世界経済年報」全三一の刊行であることは間違いないが、翻訳を担当した「経済批判会」は足助が自らの人脈を生かして編成した翻訳者集団(冬木圭、瓜生信夫、益田豊彦、高山洋吉ら)と考えられるのである。前述の山川や堺だけでなく、秋田雨雀、高村光太郎、橋浦泰雄、西川豊吉らが叢文閣の出版事業を援助していたのである。だからこそ、足助の死後(一九三〇年一〇月二九日)も叢文閣は一九四四年まで事業を継続することができたのだ。なお、妻の足助たつは医師免許(一九四一年)を取得し、開業医として後半生を送っていた。
○特集
- 奥田浩司「発表趣旨」
これまでの『白樺』派研究では、雑誌『白樺』の主な刊行時期である「大正」に焦点が当てられてきたといえるだろう。それに対して本特集では、『白樺』派研究の視座を問い直すため、「昭和」の武者小路実篤の活動に注目してみたい。
「昭和」とは、どのような時代だったのだろうか。社会的な出来事としては、昭和恐慌、満州国建国、日中戦争、アジア・太平洋戦争、敗戦、GHQの占領、新憲法発布などが思い浮かぶ。経済的な困窮の解決を侵略戦争に求め、敗北し、新たな政治体制を構築した時代と言ってよいであろう。
雑誌『白樺』が廃刊したのは大正一二年であり、ここで同人グループとしての『白樺』派の活動は終わりを告げる。その後、文学の潮流はプロレタリア文学、文芸復興、日本浪曼派などを経て、敗戦後の文学へと行き着くことになる。
では「昭和」の渦中で、『白樺』派を出自とする武者小路はどのような文学的営為をなし、社会的な発言を行ったのであろうか。そして、武者小路の言説をどのように捉え直すことができるのであろうか。
様々なアプローチが可能であるが、例えば次のようなことが考えられるであろう。まず大正から昭和にかけて言説状況との関わりを視野に収め、武者小路と時代との関わりを問い直すことがあげられる。他方、『大東亜戦争私感』などで明らかなように、武者小路は戦時下の政治に加担していくことになる。このような時代との関係性を、どのように理解すればよいだろうか。同時代の時代思潮を視野に収め、考察を加える必要があるように思う。
戦後の時期で興味深いのは、敗戦後すぐの昭和二一年に創刊された雑誌『世界』との関わりである。宮越勉「敗戦後の志賀直哉―「特攻隊再教育」から「閑人妄語」まで―」(『文芸研究』第一二八号、二〇一六年二月)によれば、志賀は「三年会」のメンバーとして、「敗戦後の国内混乱防止について話し合う懇談会」に武者小路と共に参加していたという。「三年会」の後継である「同心会」は、雑誌『世界』(岩波書店)の創刊にも協力した。加えて興味深いのは、武者小路は昭和二三年に雑誌『心』を主宰したことである。このように敗戦後の論壇にもまた『白樺』派の命脈が息づいているのだが、武者小路は敗戦をどのように受け止め変容していったのであろうか。
二〇二〇年代の私たちの社会もまた、経済的不平等や知識人と大衆の乖離など、「昭和」に問題化されたテーマを解決するに至っていない。歴史は繰り返すと言うが、当該期の武者小路の再検討によって、私たちの現在に何らかの示唆を得ることができるかも知れない。
- 井上萌香「雑誌『世界』『心』から捉える昭和の白樺派」
白樺派には大正の印象が強い。雑誌『白樺』の創刊から廃刊までと大正期がほぼ重なることが一因であるだろう。しかし『白樺』廃刊後も同人の活動は続くのであり、「昭和」における集団としての白樺派を追うことには一種の可能性がある。
「昭和」を語るには戦争を避けて通れない。『白樺』はロダン、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンといった西洋美術を紹介し、加えてトルストイを筆頭に西洋思想からの影響も強く受けている。有島武郎をはじめ実際に渡米・渡欧経験をもつ同人もいるほか、ロダンとの交流など実体験を通した西洋との交流が盛んだった。では、第二次世界大戦下においてアメリカやフランスが敵国となるなかで、彼らはどんな立場をとったのだろうか。戦争の激化と敗戦を経験し、戦後どのような活動を模索していったのだろうか。『白樺』の中心人物である武者小路実篤が関わった雑誌から紐解いていきたい。
さて、戦後昭和二一年一月には総合雑誌『世界』が創刊される。これは敗戦を経て新しい総合雑誌の発刊を望んだ岩波茂雄と、戦後の日本文化再建に向けて活動の場を必要とした「同心会」の協力によるものだ。「同人会」には武者小路実篤、志賀直哉らも参加していた。けれども二年後、「同心会」は『世界』とは別に『心』をもつに至る。
『心』は昭和二三年七月に創刊された実篤主宰の雑誌である。実篤は『白樺』後も殆ど途切れることなく雑誌を主宰した。美術展覧会が開かれた『大調和』が昭和二年四月から昭和三年一〇月まで、個人雑誌『獨立人』が昭和三年一一月から昭和五年六月というように、それぞれの雑誌は一、二年程で廃刊となる。短期間での雑誌刊行を繰り返したのちに誕生するのが『心』である。
本発表では、武者小路実篤が創刊に関わった『世界』と彼が主宰した雑誌『心』を中心に実篤ら白樺派がどのような戦後文壇を模索したか分析し、「昭和」の白樺派を再考する。
- 瀧田浩「『楽園の子等』・『大東亜戦争私感』・『愚者の夢』――戦中から戦後にかけての武者小路実篤の変移――」
武者小路実篤は明治一八(一八八五)年に生まれ、昭和五一(一九七六)年に亡くなった(享年九〇歳)。大津山国夫は『武者小路実篤研究―実篤と新しき村―』(一九九七年、明治書院)の「後記に代えて」で、武者小路の活動時期を、前期(明治・大正期)=①トルストイ時代(一九〇四~一九〇七)、②個我の時代(一九〇八~一九一七)、③新しき村時代(一九一八~一九二五)/後期(昭和期)=④真人の時代(一九二六~一九四五)、⑤大愛の時代(一九四六~一九七六)に分ける仮説を提示している。『白樺』による文化運動・第一次大戦時における非戦の言説・新しき村の営為など歴史に刻まれるようなことは前期に集中している。①で昂揚した他者と社会への志向は、②で苛烈な自己への志向と衝突しながら強度を上げ、武者小路独特の文学・思想・行動が生み出された。大正が終わるとともに、武者小路は新しき村を去り、後期としての昭和期(④・⑤)が始まる。
④は「戦中」、⑤は「戦後」と言い換えた方が、批評的な問題は鮮明になる。「戦中」に書かれた『大東亜戦争私感』(一九四二年、河出書房)が代表する武者小路の戦争肯定発言がかつての個人主義・非戦主義・理想主義を覆し、彼の評価は下落する。武者小路研究の骨格を作った本多秋五と大津山国夫にあっても、関心の中心は明確に前期にあり、戦中は最初から研究対象から除外されていた。本多は小学館版『武者小路実篤全集 第十五巻』(一九九〇年)の「解説」で、もしも発表当時に「『大東亜戦争私感』や『三笑』を読んだら、〔略〕それ以後は武者小路の書くものに一顧も払わなくなっていただろう」と回想し、大津山は『武者小路実篤論―「新しき村」まで―』(一九七四年、東京大学出版会)の「あとがき」で「『白樺』の個人主義の限界は、その後の歴史によって実証された」と躊躇なく記している(ただし、大津山は小学館版『武者小路実篤全集 第十四巻』(一九九〇年)の「解説」で、戦中から戦後にかけての武者小路について本格的な論考を書いている)。
後期武者小路を研究する足場を作るべく、今回の発表では戦中と戦後直後の書き下ろし作品、『楽園の子等』(一九四〇年、甲鳥書林)・『大東亜戦争私感』(一九四二年、河出書房)・『愚者の夢』(一九四六年、河出書房)を中心に取り上げる。上記の中では『大東亜戦争私感』の戦争発言が有名であるが、三作は創作と感想を往還する自由な形式である点、戦中・戦後におよそ似つかわしくない楽観的な未来が詳しく描かれている点などにおいて共通している。発表では武者小路の戦争に対する発言の検証をおこなうとともに、そこにとどまらず、戦中から戦後にかけての時期における武者小路の変移について検証したい。
- 𠮷本弥生「武者小路実篤における「楠木正成」像と教育の影響」
今回の特集では、武者小路実篤の「昭和」に焦点を当てるということである。発表者は、長年、武者小路実篤とその作品を研究してきたが、ここ数年の課題として、彼の戦時期を検討する必要があると考え、調査を継続している。その最中、今回のお話をいただいたが、未だ『大東亜戦争私感』(一九四二年)に言及する段階にはない。それは、武者小路のこの時期を検討するまでには、彼の受けた教育を先に考察する必要があると考えたからである。そのため、今回は、武者小路の偉人像が形成されていく過程を確認するため、彼の作品『楠木正成』を扱う。
武者小路が楠木正成の「伝記小説」を発表したのは、一九二三年(『中央公論』第三八巻第四号)が最初である。その後、一九三七年、一九四二年にも発表した。ただし、一九三七年版は、その他の作品とは全編を通じて異なるものに仕上がっている。今回の発表では、これらの作品を比較し、加えて、武者小路世代が受けた教育をあわせて考察する。
同時代評は、一九二六年の正宗白鳥「文藝時評」(『中央公論』第四十一年第一号、一九二六年一月)に、武者小路の楠木正成を含めた内容で単純な英雄崇拝と言及しているものがある。
先行研究には、谷田博幸『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか-非常時日本の楠公崇拝』(河出書房新社、二〇一九年)があり、そこには、武者小路の『楠木正成』(大日本雄弁会講談社、一九三七年)に関して、「問題は、武者小路がこの小説で、陛下のために死ぬことを「最も美しい死」として賛美していることだろう」との言及がある。ここに見る英雄崇拝や天皇のために死ぬことを賛美する皇国の精神は、先の大戦で日本軍によるプロパガンダとして利用され、国民が総動員で戦争協力を余儀なくされた皇国史観を意味するだろう。
本発表では、武者小路実篤の『楠木正成』をめぐるこの問題を取り上げ、彼の作品を分析することで、戦前は非暴力主義の武者小路が、先の日本の戦争を肯定する方向へ向かう契機の一端として、当時の教育が彼とその作品に及ぼした影響を検討したい。
| 事項 | ファイル名 |
|---|---|
| 表紙 | 2701表紙.pdf |
| [講演論文]有島武郎と子どもの現代芸術 中村三春 | 2702有島武郎と子どもの現代芸術.pdf |
| [論文]「新興芸術」前夜―有島武郎「或る施療患者」論― 石井花奈 | 2703「新興芸術」前夜.pdf |
| [論文]階級について語るとはいかなることか―晩年の有島武郎について― 木村政樹 | 2704階級について語るとはいかなることか.pdf |
| [論文]「雑」なるものの回帰―有島武郎「宣言一つ」と個人雑誌『泉』をつなぐもの― 阿部高裕 | 2705「雑」なるものの回帰.pdf |
| [論文]御園千代の肖像写真・文書二通の紹介と五来欣造について―有島武郎との人間関係から― 内田真木 | 2706御園千代の肖像写真・文書二通の紹介と五来欣造について.pdf |
| [論文]有島武郎「惜みなく愛は奪ふ」におけるニーチェ受容―和辻哲郎『ニイチェ研究』との関わり― 何雯 | 2707有島武郎「惜みなく愛は奪ふ」におけるニーチェ受容.pdf |
| [論文]身体・内面と混迷する恋愛―有島武郎『迷路』論序説― 中村建 | 2708身体・内面と混迷する恋愛.pdf |
| [書評]荒木優太著『転んでもいい主義のあゆみ 日本のプラグマティズム入門』『サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか』 中村建 | 2709荒木優太著.pdf |
| [書評]清水康次著『『白樺』派の研究―個性と共鳴の時代―』 𠮷本弥生 | 2710清水康次著.pdf |
| [追悼文]川上美那子先生追悼文 思い出とともに 石田仁志 | 2711川上美那子先生追悼文.pdf |
| [追悼文]追悼 川上美那子先生 井上理惠 | 2712追悼川上美那子先生.pdf |
| [訂正]『有島武郎研究』第二十六号(2023年5月)の訂正 | 2713第26号訂正.pdf |
| 彙報 | 2714彙報.pdf |
| 『有島武郎研究』投稿規定・『有島武郎研究』執筆要領 | 2715投稿規定・執筆要領.pdf |
| 編集後記 | 2716編集後記.pdf |
| 奥付 | 2717奥付.pdf |
| 有島武郎研究会会則 | 2718会則.pdf |
| 裏表紙 | 2719裏表紙.pdf |
2024年11月14日公開
※ハイブリッドにて開催予定です。開催場所が確定次第、改めてお知らせします。
2024年10月3日公開
有島武郎研究会第76回全国大会
有島武郎研究会の第76回全国大会(2024年度秋季大会)を、下記のように開催いたします。
- 日程 2024年11月2日(土)13:00開会
- 会場 オンライン
【Zoomでの大会参加申し込み】
- オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードお願いします。
- 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(10月30日)までに登録を行なってください。
- お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。
申し込みURL https://forms.gle/qp2fZRSk7JR6EDuX6
- プログラム:第76回全国大会プログラム
- 会報第75号:会報第75号
===プログラム===
- 開会の辞(13:00)
木村政樹(運営委員長)
《特集 『白樺』派が演じる、『白樺』派を演じる》13:05~15:35
(司会)中村建
【報告】13:10~14:20
イプセン・ゾラ・謡 そしてnobless oblige
井上理惠ファーブル『昆虫記』はなぜ日本の知識人たちを魅了したのか?―クロポトキン『相互扶助論』との関連性からの一考察
杉淵洋一大衆文化に射す『白樺』派の影―式場隆三郎の〈アブノーマル〉へのまなざしを手がかりに
竹内瑞穂
- 14:25~14:35 休憩・質問募集
【討議】14:35〜15:35
- 閉会の辞(15:35)
阿部高裕(会長)
- 事務局連絡
===発表要旨===
○特集
- 運営委員会より
トルストイ、イプセン、メーテルリンク、エマソン、ホイットマン、ゴーリキー、クロポトキン……。有島武郎をはじめ『白樺』派の人々が影響を受けたとされる作家や思想家は、主だった名前を挙げるだけでも相当な数となるだろう。先達の研究者たちの努力もあり、『白樺』派の人々が誰のどのような作品・思想を受容したのかという点については、かなり細かいレベルまで明らかにされてきた。たとえば有島武郎の場合、アメリカ合衆国留学の際にイプセンの演劇を受容し、その後の作品に影響を与えたことはよく知られている。しかし、こうした影響/受容という図式は、しばしば両者の関係を一方通行的な枠組みのなかに押し込め、そこからはみ出すような部分を正当に評価することをときに難しくしてしまう。
そこで本特集では、『白樺』派に関連する文学・思想を検討するにあたって、〈演じる〉という視座を導入してみたい。人がある物語を演じる場面を考えてみよう。たとえ台本や演出家によって語る言葉や動きが指示されていたとしても、各自の身体と思考とを持つ役者という存在が介在する以上、程度の差はあってもそこには指示を超え出るような部分が避けがたく生じてしまう。だが多くの場合、物語をより豊かなものにするのは、まさにそうしたズレなのである。そうであるとすれば、考察すべきなのは、表現の場において模倣によって生成されていくものが何であったのか、翻案(アダプテーション)する過程で生み出されていったものは何かという点となるだろう。
また、これまで『白樺』派研究では「自己」というテーマが注目されてきたが、この問題もまた演じることと何らかの関係性がありそうだ。たとえば『白樺』派作家たちは、作家としての「自己」をどのように演じてきたのだろうか。また、同時代あるいは後世の同調者たちは、『白樺』派作家たちの作品を読んで、いかに「自己」を演じることとなったのか。近代演劇とも深い関わりを持つ『白樺』派をめぐる、パフォーマティブな表現の多様性について、皆さんと一緒に考えてみたい。
- 井上理惠「イプセン・ゾラ・謡 そしてnobless oblige」
有島武郎(一八七八~一九二三)は、一九世紀末のフランス文学界に投げかけたゾラ(一八四〇~一九〇二)の戯曲「テレーズ・ラカン」(一八七三)を読んだという仮説がわたくしにはある。さらに踏み込むと戯曲「老船長の幻覚」、小説「或る女」にテレーズの影をみる。イプセンに戯曲を書かせたゾラを踏まえた上でのイプセン論であったと思う。
「過去は死んだ。われわれは未来を見なければいけない。(略)その未来は、リアリティの枠のなかで研究された人間の諸問題をこそ、あつかわなければならない」
舞台上には〈生物実験のプレパラートに相当する「人生の截片」(section)を描出する、可能な限り「真」に近いことが必要〉とゾラは説いた。
有島は「自分の劇の稽古を見て」(一九一八)で語る(自分の劇とは「死と其の前後」)。
「人間の生活は、見る眼さへあれば、如何なる斷面を拾ひ上げても、其儘戯曲的だ。變つた約束などを加へる必要は一つもない。見る眼考へる頭さへあれば、それは其儘戯曲となる。作者が大きな激情的な場面を主題に選ぶのは、それが十分の考察を加へる事なしにも、觀客の注意を集め易いからだとさへ云へる。」
ゾラは「実験小説論 Le Roman expéerimental」(一八八〇)を発表、文芸におけるnaturalismeが一九世紀を席捲した。ここから有島の創作へ向かう姿勢も分かる。
「人間を、客観的に、すなわち社会学的・生理的・病理学的‥‥に、つまり、「科学」的に眺めようとしていたことが、特徴の一つとして指摘されてもよいかと思います。そして、こうした特徴は、19世紀前半記から19世紀後半期にいたる文化全体に見られるはず」(渡辺一夫『へそ曲がり フランス文学』光文社一九六一)
が、réalismeやnaturalismeだけでなくromantismeも体験している。謡である。父は薩摩弁を矯正する意図もあり稽古をし、母は楽しみで向かい、有島はおつきあいで稽古した。謡の世界はロマンに溢れている。劇構成もréalismeとは異なる。アッパークラスの世界であった。「宣言一つ」で閉じこもらず一九世紀フランスに登場したnoblesse obligeを遂行していたら自死はなかった。
有島は〈演じる〉ことなく〈真〉に生きてしまった。
- 杉淵洋一「ファーブル『昆虫記』はなぜ日本の知識人たちを魅了したのか? ―クロポトキン『相互扶助論』との関連性からの一考察」
有島武郎が「相互扶助」という言葉を特に大切にした作家であることは多言を待たないであろう。そして、その事実の背景として、有島がクロポトキンの『相互扶助論』からの強い影響を受けていたことも広く知られたことである。一九〇七年二月、有島は三年半にわたる欧米遊学の総決算として、ロンドン郊外のスミレの館と呼ばれたクロポトキンの亡命先を尋ね、クロポトキン本人からクロポトキン著作の日本語訳の許可を得ている。しかしながら、有島は翻訳を果たせないままに、一九二三年六月、鬼籍に入るが、その『相互扶助論』は、一九一七年に、有島が援助を惜しまなかった大杉栄の手によって翻訳されている。
ここで注目したいのは、大杉が『相互扶助論』の翻訳者であったばかりでなく、本邦最初のファーブル『昆虫記』の翻訳者でもあったという点である。大杉は一九二二年一〇月に、足助素一が経営する叢文閣より『昆虫記』第一巻を刊行するが、周知のように大杉は、翌年、関東大震災後に虐殺され、第二巻以降の出版は一旦暗礁に乗り上げてしまう。この窮地を救ったのがフランスから一時帰国していた椎名其二であり、椎名は大杉の遺志を受け継いで、第二巻(一九二四年)から第四巻(一九二六年)を日本語に翻訳する。椎名がフランスに帰国した後は、五巻、六巻を鷲尾猛、七巻、八巻を木下半治、九巻を小牧近江が担当し、一九三一年一〇月、土井逸雄の手によって一〇巻が上梓され、一連の翻訳は完結している。ファーブルによる『昆虫記』は、昆虫の科学的な生態、特にその「相互扶助」的な世界を描き出した書籍であると同時に、作品の文学的な価値も高く評価されており、大杉をはじめとする日本の翻訳者たちは、その点に魅了されていったのではないだろうか。そして、この動きが武者小路実篤の新しき村など、白樺派同人たちの動向と密接につながったものであったことも容易に想像することができる。
そこで本発表では、ファーブル『昆虫記』のフランス語から日本語への翻訳の過程を追いながら、その書籍のうちに展開されている昆虫たちの「相互扶助」的な世界観が、翻訳者たちによってどのようにアレンジされて行ったのか、翻訳者たちと有島武郎との関係、当時のヨーロッパにおける日本人と当地の人々との関係に光を当てながら、当時の日本においてファーブルの『昆虫記』が訳されなければならなかった必然性を僅かばかりでも明らかにできれば幸いである。
- 竹内瑞穂「大衆文化に射す『白樺』派の影―式場隆三郎の〈アブノーマル〉へのまなざしを手がかりに」
精神科医を本業としながらも、随筆集や啓蒙書などを生涯で二〇〇冊近く刊行した式場隆三郎(一八九八―一九六五)は、日本における初期ゴッホ研究の第一人者、また戦後においては山下清の実質的プロデューサーとしても知られるが、その多彩な文化活動の起点となったのが『白樺』派との出会いだった。新潟での医学生時代に『白樺』の衛星誌『アダム』を創刊(一九一九)し、翌年「新しき村」新潟支部を設立。震災後には柳宗悦の興した民藝運動の主要メンバーとなり、その発展に大きく寄与している。
文筆家としての式場が得意としたのが、専門とする精神医学の知見を用いた〈アブノーマル〉な芸術家の分析であった。精神病患者が建てさせた奇抜な家屋を論じてベストセラーとなった『二笑亭綺譚』(一九三九)において、式場は病むがゆえに生み出された独自の〈芸術〉のなかに「常人の心にひそむ意欲の勇敢な発現」をみる。〈個性〉の徹底が、より普遍的な価値へと通じていくという発想は、『白樺』誌上で武者小路実篤らが展開した議論とも響き合うものだろう。『白樺』派の理念を、時と場合に応じて台本や自らの役を切り替えつつも、大衆向けメディアという舞台の上で演じ続けた人物。それが式場だったのではないだろうか。
本発表では、式場の戦間期のテクストを軸にして、『白樺』派の理念が大衆文化のなかでどのように演じられていったのかを追跡していく。大衆という観客の視線や欲望を取り込んだ式場のテクスト/演技が浮かび上がらせるのは、厳しい見方をすれば通俗化を経た『白樺』派の残照でしかない。しかし、この時期の式場には途切れることなく原稿依頼が舞い込んできていた事実を踏まえるのならば、そのような通俗化した『白樺』派こそがこの時代・社会に求められていたともいえよう。『白樺』派からの大衆文化への影響にとどまらず、前者を変容させつつも求め続けた後者のあり方についても考察してみたい。