有島武郎研究会

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第74回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2023年9月10日公開
2023年10月18日会報第73号を公開
有島武郎研究会第74回全国大会

有島武郎研究会の第74回全国大会(2023年度秋季大会)を、下記のように開催いたします。

  • 日程 2023年11月18日(土)13:00開会
  • 会場 オンライン

【Zoomでの大会参加申し込み】

  • オンラインでの参加を希望される方は、必ず Zoom ミーティング(無料アプリ)のダウンロードお願いします。
  • 参加希望される際は、以下の URL もしくはプログラムに記載の二次元バーコードからGoogleFormに移動し、大会2日前(11月16日)までに登録を行なってください。
  • お預かりした情報は厳重に管理の上、大会運営以外には一切使用いたしません。

申し込みURL  https://forms.gle/cu2YUy7WX1s6tFDZA

                    

===プログラム===

  • 開会の辞(13:00) 

阿部高裕(会長)



《研究発表》13:05〜14:05
嗅覚と「生」―「或る女」第七章の嗅覚喪失をめぐって―
唐銘遠
里見弴「ひえもんとり」論―牙を抜かれる民衆たち―
村松梨央

  • 10分休憩

《特集 有島武郎、ここが面白くない!》14:15~16:45
 (司会)荒木優太


【報告】14:15~15:35

『或る女』って、どこがおもしろいんですか?
渡邉千恵子

有島評論における偽善者の姿勢
何雯

反キリスト小説として読む有島武郎
上牧瀬香

  • 15:35~15:45 休憩・質問募集

【討議】15:45〜16:45


  • 閉会の辞(16:45) 

木村政樹(運営委員長)

  • 事務局連絡
  • 臨時総会(16:50)


===発表要旨===
○研究発表

  • 唐銘遠「嗅覚と「生」―「或る女」第七章の嗅覚喪失をめぐって―」

 有島武郎の文学には、幻像に関わる場面かそれに相当するものが大量に見られる。『或る女』はまさに「夢幻的」場面に富んでいる作品である。『或る女』の「夢幻的」場面に、多くの関心が集まった。
 特に第七章アメリカへ旅立つ直前、葉子が内田を訪問し会えずに帰る途中の、「既視感」、母親の幻像と鼻血などの体験が連鎖して登場する。連続で多くの「夢幻的」体験が密集的に登場し、相互に作用するこの箇所は「夢幻的」場面の中でも非常に複雑で重要である。
 この一連の体験が始まる前に、内田家を出た直後に「鼻の孔が塞がつた」と、葉子の嗅覚の無効化は注目に値する。鼻血はまさに母親の幻像の直後に嗅覚の回復の現れである。鼻詰まりと鼻血、嗅覚の無効化と復旧の過程は葉子の時間軸の解体と復元の過程とはほぼ重なっている。
 世俗世界に対する清算によって想起される内田、「他人の失望」をようやく完全に体験した葉子。内田に対する訪問の前に、社会的死亡という「死」のイメージが充満している。過去に対する総清算として、つまり「死」の代替物として、時間軸の解体が登場する。
 接近感覚でありながら遠隔感覚でもある嗅覚は同時に拒否不可能性と超越性を以て、ここでは感覚の代表として失われ、葉子の精神的生命の代替物の役割を果たした。嗅覚の喪失は精神的な「死」の体験であり、その回復は「復活」の体験として機能する。
 この第七章の「死」と「復活」は葉子の冒険と、冒険における「死」に対する憧憬と試みの下地として持ち出される。また、「死」そのものでない、代替物である嗅覚喪失は「死」と「涅槃」の真偽に打消しの余地を残し、結末の内田への回帰を可能にした。
 本発表は、『或る女』第七章における嗅覚喪失の役割を解明し、第七章の嗅覚喪失が全作品の構造における機能を考察したい。そして、嗅覚感覚と主人公の意識、ないし精神的生命との関係、あるいは嗅覚の抽象的象徴性に手がかりを提供したい。

  • 村松梨央「里見弴「ひえもんとり」論―牙を抜かれる民衆たち―」

 里見弴「ひえもんとり」(『中央公論』一九一七年)は死刑囚の死骸から肝を取り出す競技である「ひえもんとり」を題材とする作品である。本作は、着眼点や筆致が評価されつつも、主題の不在が指摘されていた。それらはいずれも簡単な作品評価にとどまっており、作品研究はおこなわれていない。
 本作発表の一か月前にあたる一九一七年三月一二日は、ロシアの首都ペトログラードで皇帝ニコライ二世を退位に追い込む、通称二月革命が起こっていた。日本国内では、翌年から激化した米騒動に代表されるように、主に農民が第一次世界大戦のあおりを受けていたことは周知の事実である。「ひえもんとり」発表同年一〇月二二日に書かれた原敬の日記にも、民衆による蜂起を警戒するような記述が確認できる。
 こうした同時代状況を鑑みて、本作を、社会の中で民衆が如何にして牙を抜かれ、都合のよい型に流し込まれていくのかを語った、批判的側面のある作品として読み替えることが可能なのではないだろうか。
 そのため本発表では、「施政者」を補助線に、まずテクスト内での特徴的な方言の扱われ方から言語的な支配の構造を明らかにし、その内部で「ひえもんとり」に陶酔するよう仕向けられた村人について検討する。そのうえで、テクスト結末部「全く気がつかなかつたものは、鼻を欠いた梅毒くらゐは未かなことで、……人であつたこと、死んだこと……。」を読む。以上の分析を通し、本作のもつ批評性を明らかにしたい。
○特集

  • 荒木優太「司会者より」

 個人的な話からはじめさせてください。私が初めて有島武郎を読んだのは高校生の頃、『小さき者へ・生れ出づる悩み』の文庫本で、なかなか熱っぽい文章を書く作家がいるんだなと驚き、次に手にとった『惜みなく愛は奪う』で一気に魅了されました。自分もこんなふうに生きたい!と。というわけで、彼の代表作らしい『或る女』をワクワクしながら読み進めたのですが、これがまったく面白くない。可哀想といえば可哀想だけどお前もお前で性格の悪い奴だしな、などと思ったのを克明に覚えています。
 勿論、いくつかの研究書を読んだいまならば、『或る女』の魅力もまったく分からないわけじゃありません。しかしそれでも、あのとき感じたガッカリが、現在の読み方に劣っているとはまるで思わないのです。佐々木信子のことや有島の思想遍歴を事前に知っていれば、なるほど、いくつかの細部が興味深く浮かび上がってきます。にも拘らず、多くの読者は全知の視点から文学テクストを読んだりしません。よくも悪くも、欠けてたり歪んでいたりするのが読みの自然状態であり、そのなかで様々な文化が実際に派生していくと思うのです。テクスト理論とは人間の無知に寄りそうプラグマティズムの方法であると私は考えるのですが、これはまた別の話。
 三〇年以上の歴史を誇る有島武郎研究会は、多くの個人研究会と違い、作家の単なる顕彰・称揚とは異なる批評的な姿勢をとりつづけてきましたし、それが会の魅力の一部でもあったでしょう。いうまでもなく、有島武郎という作家の大きさを否定する人はいません。ただ、その大きさとは批判や疑問を率直にぶつけてもかえって新しい反響で応えてくれる豊かな奥行きをふくんでいたのではないでしょうか。今回、専門的な研究を重ねてきた有島研究者三人に、あえて有島批判をしてもらうという難問をリクエストすることで、研究的風景の刷新を試みます。ぜひ、みなさんのなかの「面白くない!」を頭の隅に置きながら、Zoomにアクセスしてみてください。積極的なご参加をお待ちしております。

  • 渡邉千恵子「『或る女』って、どこがおもしろいんですか?」

 今回の特集テーマは「有島武郎、ここが面白くない!」だと司会の荒木さんから聞かされ、ふと頭をよぎったのが、タイトルに挙げたフレーズである。
 高校の教員になりたての頃、勤務校の一年次の夏休みの読書感想文のリストに、『或る女』が入っていた。毎年リストに『或る女』を入れているとのことだったが、残念ながら長編ということもあり、女子高でも生徒には不人気の小説だった。そうした中、読書好きの生徒の一人が、「『或る女』って、どこがおもしろいんですか?」と聞いてきたのだ。
そのとき私は、自分自身同じ年ごろに『或る女』を読んで、異性の前での葉子の所作に全く共感できなかったこと、そもそも男性作家が女性の嫌な部分を誇張して描いているようで不快だったのを思い出し、生徒に対し、その疑問(不満)も分からないではないとだけ、きわめてあいまいな返答をしたのを思い出す。
 とはいえ、『或る女』は有島武郎の代表作に挙げられ、研究論文も数多く書かれている。必然的に読み返す機会が増えた。それがきっかけで、当研究会のシンポジウムでパネリストとして葉子のセクシャリティがどのような言説で語られているかを分析し、報告したことがあった。たくさんのご質問ご意見をいただいたにもかかわらず、自身の怠慢により論文にしないまま今日に至っている。
 今回の特集テーマは細かい縛りがないので、やり残しの宿題を片付けるようなつもりで、『或る女』に共感できなかったという個人的な問題からテクストを読み返してみたい。
かつて取り上げた五章~七章で語られる「つまづ」き、そして割れる鏡の表象をめぐってさらに考えを深めるつもりである。くわえて今回の発表では、男性作家が、父―息子の関係を描くのであれば違和感を抱かなかったであろうに、母―娘の関係を描いたことについても触れてみたい。

  • 何雯「有島評論における偽善者の姿勢」

 有島武郎の評論は、時事、文芸よりも、自らの内部問題を論ずるものが多かった。「二つの道」(1910・5)において、有島は自らの内部における二元的な思考様式の葛藤を吐露した。それを一元へと統一しようとする志向が、有島のそれ以降の評論の主要なテーマとなっているが、発表者はその思想の紹介の仕方に違和感を抱かざるを得ない。
 例えば、「内部生活の現象」(1914・7~8)の冒頭では、「私は唯私の生活の内部に起る現象を、そのまゝ偽る事なく申上て見たいと思ふだけであります」という、一見謙虚な言い方をしていたが、その後は「魂」という概念を、強く主張した。また、「惜みなく愛は奪ふ」(1920・6)では、最初は「弱い人」、「偽善者」だと強く自己批判をしたが、その次にはニーチェも弱い人だと述べた。弱い人という言葉はそれまでネガティブな意味で使われてきたが、ニーチェを導入した瞬間、ポジティブな意味を担った。それとともに、それまでの自己批判の力強さが薄まり、一種の自己肯定となった。さらに論を進めていくと、有島は最終的に冒頭の自己批判を全面的に裏切って、「奪う愛」と「本能的生活」といった、自己肯定に満ちた思想を提示したのである。
 以上のような、自信のなさや自己批判などの後に続く思想の表明の仕方は、すなわち言説の反転は、例にあげた以外の評論でも見られる。これらの評論の中での、自己批判から自己肯定への急展開は、最初の自己批判を一種の偽善に仕上げてしまったのではないかと考えられる。自己批判を書かずとも論は成立するにもかかわらず、有島はなぜそれを書かなければならなかったのだろうか。本発表は、その偽善的な姿勢が有島の評論群において果たす役割を明らかにしたい。それとともに、その偽善的な姿勢とニーチェ受容との関連性も解明していきたいと思う。

  • 上牧瀬香「反キリスト小説として読む有島武郎」

 有島武郎で卒業論文を書いてから、20年以上が経つ。彼の享年も超えてしまった。何度読んでも新鮮な面白さを与えてくれる有島テクストの、「面白くない!」ところなどあるだろうか。司会の方からほとんど無茶ぶり(?)といえるお題をいただいてからというもの、「面白くない」点を半ば無理やりに見つけ出しては検証する作業を繰り返したが、それはしかし、何度試みても「……やっぱり面白い」に転じてしまう。
 そうしたウダウダを繰り返すうち、自分が「面白くない!」と思うポイントを、意識的に避けながら勉強してきたことに気づいた。それは、「キリスト教」である。「解らない」から「面白くない」のだ、といわれればそれまでであるが、キリスト教とは縁のない生を生きてきた私にとって、離教後の有島とキリスト教の関係は、距離感が掴みにくい。1910年に教会を退会し、1919年には「これから独りで出懸けます。左様なら」(「リビングストン伝」序)と述べながらも、先行研究が明らかにしてきたとおり、亡くなるまでの有島のテクスト群には随所に聖書の言葉やモチーフが見受けられる。
 しかし有島のテクストに描かれるのは、道徳化されたキリスト教を前提として成り立つ近代社会の矛盾した様相や、そこから「悪」と決めつけられ排除される者たちの苦しみであるようにも見える。それはいつも、この社会が根本的に間違っていることへの、そこに生きる自分が見て見ぬふりをしている罪悪感への、鮮烈な気づきをうながしてくれるのだ。
離反したはずの聖書の言葉を使い続けるのはなぜか、編み出されたテクストがキリスト批判の色を帯びるように見えるのはなぜか。「解らない」に挑むことで「面白くない!」と決別し、今度は意識して「面白い」に転じさせる……本発表は、以上のような目標をもって有島のテクストを反キリスト小説として捉えなおすための、ささやかな試みである。