有島武郎研究会

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第58回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2015年10月15日更新
《特集 「戦後」再考〜〈白樺派〉という視座から〜》
 有島武郎研究会の第58回全国大会(2015年度冬季大会)を下記のように開催いたします。参加自由・聴講無料です。ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

===プログラム===
【『有島武郎研究』第18号合評会】(10:30〜12:00)     4081教室
(司会)杉淵 洋一・石井 花奈
評議員会】(12:10〜12:50)                   4081教室


  • 開会の辞(13:00) 

二松学舎大学学長 菅原 淳子
【研究発表】
 (司会)片山 礼子
経済学者、文学者、地主という三つの顔を持つ早川三代治の「土」・「土地」への関心 ―師の有島武郎からの影響および文学作品を中心に―
金城ふみ子
《特集 「戦後」再考〜〈白樺派〉という視座から〜》
 (司会)永井 善久
【報告】(14:00)

「後退」する文学史 ―本多秋五『『白樺』派の文学』論―    
木村 政樹
白樺派〉という安全装置 ―民主主義文学者たちが否認したもの―   
山口 直孝
敗戦後の志賀直哉 ―「銅像」「天皇制」「国語問題」などの提言をめぐる考察―              
宮越  勉
【討議】(16:00〜17:00)

  • 閉会の辞 

有島武郎研究会会長 中村 三春

【懇親会】(17:30〜19:30)
 (会場)二松学舎大学13階レストラン“Café sora”

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【研究発表要旨】

経済学者、文学者、地主という三つの顔を持つ早川三代治の「土」・「土地」への関心 ―師の有島武郎からの影響および文学作品を中心に―
金城ふみ子
 有島武郎を師と呼ぶ人物の一人に早川三代治(1895-1962)がいる。早川は、限界革命と呼ばれる数理経済学を日本に紹介した経済学者の一人として著名である。数理経済学者としての研究の他にパレート分布などの研究で計量経済学・実証的経済学分野における功績でも評価されている。北海道帝国大学農学部小樽商科大学早稲田大学教育学部で教鞭をとり、研究の集大成「パレート法則による所得と財産分布に関する研究」により経済学博士の学位を得た。
 早川が戯曲や小説なども書く文学者であったことは意外に知られていない。早川は、北海道帝国大学の前身の東北帝国大学札幌農科大学予科有島武郎と出逢って師事し、欧州に留学するまで親しい関係にあったことは残されている有島の葉書などで知られている。伊藤整小林多喜二と同時期に狭い小樽市で成長した。早川家は祖父の代からの「商人地主」で小作も抱えていた。当時の北海道で唯一の社会科学系の高等教育機関であった小樽高等商業学校の教師陣とも親交のあったことなどを知る人は少ないであろう。
 こうした早川の生立ちや複数の顔の共通項は「土」・「土地」、すなわち農業である。耕作地や所得の分布の経済学的実証研究は、裏を返せば不平等社会の実証的研究であり、文学作品の中核は土・土地の小説である。
 土・土地を扱った早川の小説には、北海道の凶作続きの開拓村の歴史を描いた長編小説〈土と人〉(五部作)、私小説的な『若い地主』および「農地解放」、東京大空襲難民の入植者を描いた「冷たい土地」などがある。農業、農村、貧困そしてそれ故の身売りなどの下層階級の生活についての写実の試みである。それは、師の有島武郎のように、「クロポトキンの書物を読み、物の所有に疑問を感じた」というような正面からの思想的批判は敢えて避けた、国家総動員法下での静かな、不平等社会の実態の指摘だったのではないか。
早川三代治について、生立ち、有島武郎からの影響、土・土地に関わる文学作品について考察する。

【特集 趣旨・要旨】
《特集 「戦後」再考〜〈白樺派〉という視座から〜》

【司会者より】
司会 永井 善久
 アジア太平洋戦争の敗戦後70年という節目に、大半の「国民」の思いを裏切るかたちで、安全保障関連法が強行採決された。様々なフラストレーションを抱かれている方も多いことだろう。このような何とももやもやした納得のいかない感じには、決して同質ではないものの、「戦後」(敗戦直後から現在をも含めた期間として把握してほしい)の〈白樺派〉を考える際に、少なからぬ研究者が抱く感覚と通底するものがあると私には思われる。
 例えば今回、発表者の方々が言及するであろう志賀直哉について考えてみよう。アジア太平洋戦争の戦捷を言祝ぐ「シンガポール陥落」(1942年2月17日にラジオ放送、その後同年『文芸』3月号に掲載)が、敗戦後少なからぬ批判を浴びたことは周知の事実である。織田作之助(「可能性の文学」)や太宰治(「如是我聞」)といった〈無頼派〉作家たちによる攻撃、中村光夫の独自の文学観によるほぼ全面的な否定、さらにいえば敗戦後には「灰色の月」(『世界』、1946・1)を除きさしたる重要作もないにもかかわらず、いまだに〈文学史〉において正典(カノン)としての位置を占める〈小説の神様〉。
 志賀に典型的に窺えるように〈白樺派〉にも同様のわからなさがある。「新日本文学会」の〈白樺派〉評価、本多秋五による画期的な〈白樺派〉研究。さらに本多以外の『近代文学』同人たちの言説。有島武郎武者小路実篤、里見とん、柳宗悦志賀直哉といったおよそ傾向の異なる群像を、〈白樺派〉なる表象で一括りする上で、これらの言説はどのように機能したのか。上記のほかにも、〈白樺派〉を起点として「戦後」の言説空間にアプローチする切り口は少なくないだろう。多数の会員内外の皆様にご参加いただき、充実したシンポジウムにしたい。

「後退」する文学史 ―本多秋五『『白樺』派の文学』論―    
木村 政樹
 『白樺』派研究の礎を築いたのは、本多秋五であるとされている。だが、この認識を、研究史という枠組のなかで過度に実体化したとき、ある転倒が生じる危険性には留意しなければならないだろう。つまり、本多が「日本近代文学研究」における『白樺』派研究という領域の確立を当初から企図したかのように、後発する研究者が暗にみなしてしまう恐れがありはしないだろうか。単線的な研究史の把握によって取り逃されるのは、たとえば、本多が『『白樺』派の文学』に結実させた諸論考が発表された一九五〇年代前半の文学研究・批評をめぐる文化的位相である。
 同書で本多は、吉田精一や青柳優の先行研究に言及しているのみならず、過去の「明治文学研究」の潮流にも目配りして研究史を概観している。ここでの本多の『白樺』派論とは、自身が関わったプロレタリア科学研究所における文学史研究から継続する批評形式の可能性を批判的に吟味するものであったことがうかがえよう。そこに横たわっているのは、文化運動における文学的遺産の継承をめぐる諸課題であり、その営みの背景には、日本共産党の五〇年分裂の後に「宮本百合子」という文化記号が熾烈な争点となっていったという事態があった。
 『『白樺』派の文学』の「あとがき」で本多は、「現在の私は、これら諸篇を書いたときよりは後退した立場で仕事をしてゐる」と記している。「私は後退につぐに後退をもつてする批評家であらうか、それを私に強ひたものは何であるか、これらを私はいま明らかにいふことが出来ない」(本多秋五「あとがき」)。本発表では、このように自己規定される本多の文学史の論理を解読することを目的とする。前向きな理念や進歩が信じられていると同時に、革命運動のあり方への不信や絶望もまた噴出する時代のなかで、後ろ向きの歴史的思索がいかにして展開されたのか。それを追跡することは、いま、『白樺』派について語ることがもつ意味を再考するためにも不可欠ではないだろうか。

白樺派〉という安全装置 ―民主主義文学者たちが否認したもの―   
山口 直孝
 アジア太平洋戦争敗戦後、武者小路実篤が戦争責任を問われ、志賀直哉が非難の対象となったことは周知のことである。〈白樺派〉の書き手たちが特権的、独善的、観念的と否定的にとらえられ、厳しく糾弾されたことは、時代の転換を告げる象徴的なできごとであるかのように映った。しかし、高度経済成長の下〈白樺派〉が教養主義の文脈で評価を定着させていくことを思えば、批評は一過性の現象に止まり、有効性を発揮しなかったと言わざるをえない。論調の激しさに比して、主張が十分に浸透しなかったのはなぜか、改めて問う必要があろう。敗戦から七〇年後の時空から顧みるという条件を活用し、検証に際しては、「戦後」や「白樺派」という括りも自明視せず、対象化することを目指す。
 中心に取り上げるのは、民主主義文学運動に携わることを志し、新日本文学会に集った文学者たちの言説である。彼らの論難には、共通の型がある。「志賀は自然主義の反作用たる白樺派運動の一要素として文学的活動を展開した」、「その自我が自然主義者の主観表出と同じく社会的人間の自我として形象化されず、もつぱら「私」としてしか打出されることができなかつた」(杉浦明平志賀直哉の危機」〔『文学会議』第七輯、一九四九年四月十日〕)に見られるように、いわゆる「近代的自我」の形成の到達点を〈白樺派〉に定め、かつ、社会的関心が閉ざされている限界を指摘する論理の展開において、大方の声は等しかった。また、多くの言及には、志賀の描写力に対する賞賛が含まれていた。批判に問題があるとすれば、根本の理由は基本的な認識のありように求められなければならない。本発表では、民主主義文学運動の担い手たちの思考の陥穽に迫ることを試みる。同時期の文学者の戦争責任の追及が表層的なものに終わったことを視野に入れ、彼らが、ひいては志賀直哉や武者小路が、戦争に対する自身の当事者性を否認しようとしていたことを可視化したい。真に向き合うべき領域から目を逸らすために、〈白樺派〉という対象が言わば安全装置として見出されたのではないか、というのが現時点での仮説である。
 『近代文学』同人たちの発言を検証する余裕はないが、本多秋五白樺派の文学」(『文芸』第七巻第三号、一九五〇年三月一日)のように、敗戦後に〈白樺派〉という呼称が一般化していく傾向は注視したい。文学運動、文学流派として〈白樺派〉を受け止める姿勢が敗戦後になぜせり出していくのか、あわせて考えられればと思う。

敗戦後の志賀直哉 ―「銅像」「天皇制」「国語問題」などの提言をめぐる考察―              
宮越  勉
日本の敗戦後七〇年にあたる今年、敗戦直後の志賀直哉に着目してみようと思った。敗戦後の志賀の最初の「創作」は「灰色の月」(『世界』、昭21・1)であったが、時局に関わっての政治的、文化的発言が多くなされていた。それらの多くは物議を醸し今日にいたっている。本発表では以下の三点を中心に考えたい。まず、「銅像」(『改造』、昭21・1)は、幕末の幕臣川路聖謨之生涯」を読み西洋人襲来に備えて竹槍という戦力の彼我の差が今戦時下(昭20終戦直前)と同じ位相にあったとし、ここから豊臣秀吉を英雄だと歴史で教えられて来たことを顧み、秀吉もナポレオンもヒットラーも大悪魔だとし、咽元過ぎればで、百年後、二百年後に東條英機が不世出の英雄として祭り上げられないとも限らない、その予防策として空襲、焼け跡、餓死者その他をレリーフにし、柵は竹槍、東條英機銅像を建てたらどうか、と提言したのであった。むろん実現は不可能と思いながらの提言であったろう。が、随筆「銅像」は残っていて、志賀の反戦恒久平和への思い、さらにはその歴史認識を考える糸口にもなるだろう。また「鈴木貫太郎」(『展望』、昭21・3)は、終戦にうまく持っていった鈴木首相の功を綴った随筆であった。半藤一利が「じつにいい論評」としており、再評価すべきものと思われる。次は、「天皇制」(『婦人公論』、昭21・4)で、天皇制廃止に左袒するものの、天子様と国民との古い関係を捨て去るのは淋しいので新憲法に期待する、としたのであった。志賀は『新日本文学』の賛助会員となっていたが、中野重治の二種の文章を読み不愉快に感じ新日本文学会を脱会したのであった。藤枝静男の「志賀直哉天皇中野重治」(『文芸』、昭50・7)を重要参考文献とし、併せてその「特権階級意識の潜在と天皇への親近感」をめぐり『近代文学』の本多秋五(「白樺派の文学」の内容の一部)や、白樺派志賀直哉らについて私なりに考えてみたいと思う。最後に、「国語問題」(『改造』、昭21・4)で、日本語は不完全で不便なもの、かつて森有礼が英語を国語に採用しようとしたことに賛同し、今度は文化国家を目指してフランス語を国語に採用してはどうか、と提言したのであった。志賀自身、自分の文章はうまくないと自覚しており、志賀を名文家としたのは後代の作家たちである。この発言は本気なものであったと私は見る。志賀は、百年、二百年先を思う発想を持つ文学者である。今日、英語重視の学校教育の方向性にあるなかで、志賀の「国語問題」は看過できないものを含んでいたのである。