有島武郎研究会

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第60回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2016年10月19日公開
2016年11月11日更新(評議員会情報)

有島武郎研究会第60回全国大会
《特集 テクストから問い直す〜ジェンダーセクシュアリティ論の新視角》
 有島武郎研究会の第60回全国大会(2016年度冬季大会)を、下記のように開催いたします。参加自由・聴講無料です。ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

===プログラム===

  • 開会の辞(11:00) 

宮越  勉
【研究発表】(11:10)
 (司会)下岡 友加
志賀直哉と世紀末芸術 ―「祖母の為に」にみるマックス・クリンガーの影響―
柳沢 広識
〔昼食休憩〕 11:55〜13:15
評議員会〕 12:10〜12:40 明治大学駿河台キャンパス 研究棟四階 第三会議室

「文学」と「姦通」、あるいは「文壇」的に興奮するということ ―志賀直哉「雨蛙」を中心に―
丹波 拓也

《特集 テクストから問い直す〜ジェンダーセクシュアリティ論の新視角》
 (司会)佐々木さよ/上牧瀬 香
【報  告】(14:10)
『或女』のジェンダーイデオロギー ―平塚らいてう・恋愛・狂気―     
奥田 浩司
性別と個別化と
大久保健治
有島武郎と女性解放思想 ―『三部曲』「聖餐」における〈マリヤ〉の表象を視座として―   
山田 順子
〔休憩〕 15:50〜16:10
【討  論】(16:10〜17:10)

  • 閉会の辞 

中村 三春

【臨時総会】(17:20〜17:50)
【懇 親 会】(18:30〜)

→発表要旨は「続きを読む」をクリック
【研究発表要旨】

志賀直哉と世紀末芸術 ―「祖母の為に」にみるマックス・クリンガーの影響―
柳沢 広識
 大正元年九月、志賀直哉は『中央公論』に「大津順吉」を発表、実質的な文壇デビューを果たす。父直温との不和を描いた小説であることから、これまでにも多くの論考がなされてきた。「大津順吉」から遡ること八ヶ月前、直哉は「祖母の為に」(『白樺』、明治四十五年一月)を発表した。周知のように、祖母留女への愛を題材とした作品であり、そこでは夢や妄想、空想と現実が渾然一体となった「病的」な世界が「私」の強迫神経症的とも言える眼差しを通じて語られている。「祖母の為に」において、直哉は自身の生育事情(「祖母の手だけで育てられた」ことなど)を初めて公にしたのであった。そして翌月には、「母の死と新しい母」(『朱欒』、明治四十五年二月)、「憶ひ出した事」(『白樺』、明治四十五年二月)を同時に発表、実母銀および義母浩、祖父直道を小説の題材とする。その一連の流れからは、創作対象として家族が焦点化されていく様相が確認できる。それ故に「祖母の為に」は、直哉の創作対象が家族、ひいては自伝的要素へと移行する起点として捉えることが可能である。しかし、「総ての友達が自分に敵意を持つて居る」という異常な冒頭部からもわかる通り、「病的」な「飛躍」を示したその作品世界は先に挙げた三作品とは一線を画している。それはなぜか。相違の原因を探るためにも、作品背景を含めて考察する必要があると思われる。
 本発表では、マックス・クリンガーエッチングが祖母留女と直哉に共有された記憶であることを確認し、「祖母の為に」の背後に潜む世紀末芸術の影響を明らかにしたい。仮想敵=「白つ児」との架空の闘争、その不気味な想像力の根底にはマックス・クリンガーの〈夢の方法〉が横たわっている可能性があり、その分析は直哉の夢と現実を再考する手掛かりともなり得るのではないか。「私」の内部において、「白つ児」と「祖母」の肥大化は対を成している。「私」に対して両者が相互に及ぼす影響について勘考し、作品の新たなる読みを目指したい。

「文学」と「姦通」、あるいは「文壇」的に興奮するということ ―志賀直哉「雨蛙」を中心に―
丹波 拓也
 大正一三年一月『中央公論』に発表された「雨蛙」について、志賀は「創作余談」の中で「初めの方はいいが後半は失敗した。」と振り返っている。発表直後に、武藤直治が『読売新聞』(大正一三年一月一二日)において、「この作品で最も不満なのは、作者がこの中の生活を遊離したものに取り扱ってゐることだ。」と批判するなど、本作は志賀本人だけでなく当時の「文壇」にも成功作としては受け止められなかったようである。
 だが、このように本作を失敗作であるとして軽視してよいとは思えない。本発表では、「文学」の不道徳的なものの面白さによる主人公・賛次郎の新たな自己の発見と、その一方でその「文学」が実生活では受け入れられないという二面性が描かれていることを明らかにし、志賀直哉作品の「文学」・「文壇」と「浮気」・「姦通」との繋がりについて迫ることが目的である。
 本発表ではまず、せきの姦通事件の舞台となるA市が「近代」的な都市と描写される一方で、賛次郎が暮らすH町は「前近代」的な共同体として造形されている点に注目する。この設定は、のちに賛次郎がA市に行ってまたH町に戻ってくる構図を考察していく上で重要な足掛かりとなる。
 次に、H町の女性である祖母とA市の女性である芳江に焦点を当て、それぞれがせきの姦通事件を引き起こす引き金であったことを指摘する。
 続いて、有島武郎武者小路実篤らのスキャンダルに騒ぐ当時の文壇の中で本作が発表されたという背景を踏まえ、賛次郎夫婦が作中で文壇スキャンダルに巻き込まれていることを提示する。
 また、親友・竹野が「文壇の消息」について賛次郎に語ってきたことに注目する。そして、Gとせきの姦通事件を、文壇作家の一種の「文壇消息」として、竹野が賛次郎に語っていることを暴き出す。賛次郎はこれまで他人のことであった「文壇消息」が、今回については他人のことだとは思えず、興奮を覚えるのである。
 最後に、せきの姦通事件によって「文学」的、「文壇」的な事態への興奮を覚え、新たな自己と向き合うも当惑し、その末にH町に回帰していく賛次郎の物語であることを明らかにする。その上で、志賀直哉作品の「文学」・「文壇」と「浮気」・「姦通」との繋がりについて迫りたい。

【特集 趣旨・報告要旨】

《テクストから問い直す〜ジェンダーセクシュアリティ論の新視角》

【司会者より】
佐々木さよ
 有島武郎研究会では、セクシュアリティの視点やジェンダーの視点からの研究成果を積み上げてきているが、今回の特集テーマでは「新視角」とあるように、これまでの積み重ねの上に立ちつつも新局面が開かれることを期待した。
 思い起こせば、本研究会がフェミニズムジェンダーの視点を打ち出してシンポジウムを開いたのは二十年前、平成八(一九九六)年六月の第十九回大会であったと記憶している。この時には、これらの概念の共有に配慮して進める必要すらあったように思う。有島という作家の思想と文学の特性という理由もあって、女性をめぐる問題は本研究会で論じられることが多かったが、これらの新概念をもってシンポジウムを組むことに意味があったと理解している。
 近代文学研究の場でフェミニズムジェンダーセクシュアリティ、さらにはクィアといった概念が共有されてきた現在、また、ジェンダーセクシュアリティを視点にして生み出された結果を受けて新たに見えてきたこともある現在、再び有島における女性表象と時代の言説について特集を組む意義があろう。また、男/女という二項で捉えること自体が問われなければならない社会的文化的現在にあって、有島における女性表象と時代の言説はどのように読めるのか。二〇一六年の現在ではどのような相貌をもって見えてくるのか。
 今回の特集では、パネラーの御三方の発表要旨にあるように、有島の生きた時代の中に立脚して見ることと理論の応用とが両輪となっている。『或る女』そして『三部曲』から「聖餐」というテクストと時代のテクストをジェンダー論、セクシュアリティ論によって分析すること、そしてさらにはジェンダー論、セクシュアリティ論そのものがもつイデオロギー性の再検討が射程に入っていること。これらが今回の特集の意図するところである。
 私たちの生きる現在を照らし出す特集となり得るよう、司会者として微力ながら努めたい。

『或女』のジェンダーイデオロギー ―平塚らいてう・恋愛・狂気―     
奥田 浩司
  『或る女』は有島武郎著作集第八輯(前編)、同第九輯(後編)として、叢文閣から出版された。出版年は、奥付を参照すれば「大正八年」となるが、表紙には「一九一九」とある。
 このテクストのストーリーを、極めて単純化していえば、一人の〈女〉が、道ならぬ恋路の果てに〈狂気〉に陥るということになるであろう。葉子は、社会から抹殺され、姉妹とも離れ、わが子すら捨て去ろうとする。葉子はひたすら〈恋愛〉を生きようとするが、孤立と〈狂気〉の時間しか与えられていない。では〈恋愛〉が、〈女〉を〈狂気〉へと導くことに、いったいどのような意味を見いだすことができるのであろうか。
 この点について考えるために、時代状況に目配りをする。周知のように、平塚らいてうは自由〈恋愛〉を敢行し、その一方で国家による〈母性〉保護を主張する。このような平塚らいてうの主張は、同時代の婦人解放運動において、一定程度の影響力を備えていた。さらに視野に収めておきたいのは、大逆事件である。このテクストは、大逆事件と関係を取り結んでいると考えられる。
 同時代性という観点から、本発表では、あえて初出『或女』を戦略的に参照する。葉子の〈恋愛〉を時代の中に置き直したとき、『或女』における〈狂気〉の意味が見えてくるのではないだろうか。『或女』を同時代の文脈に再配置して、ジェンダーイデオロギーを再検討し、テクストの批評性に光を当てててゆきたい。

性別と個別化と
大久保健治
 男性である有島武郎が、自らの執筆作品『或る女』の中で、女性主人公「葉子」を如何に描ききったのか、といった根源的な問は、一方で次の逆説を内包している。男性であるがゆえに、描ききれていない女性の部分が必ずあるはずだと。
 フェミニズムの語句使用から、ジェンダーのそれへの移行は決して、理論的に明確な分類によって達成された訳ではない。だが、男性と比して社会的な女性の偏在への異議申し立てに端を発した言説が、「男性であるがゆえに」といった負の要素を招喚するようになるのは、ジェンダー理論の導入からであろう。理論的応用が、文学〈場〉に影響を与える要素とは何か、言葉をかえるなら、なぜ、男性は女性を描けないのか、または女性であれば女性を描けるのかといった、語る主体の性差の問題が、自明の前提のごとく文学を語る言説の中に流通しているのはなぜかを問い直すこと、それが本発題の目的である。
 『或る女』は、後編部分執筆時に影響を与えたとされるエリスの性欲学を読んでから数年後の、大正八年に刊行された。これは、前編の要素を持つ『或る女のグリンプス』執筆時からの時間差の問題も同様に含んでいる。自然主義の後退から、次の文学的指標は、大正九年つまりプロレタリア文学の台頭に求められる場合が多いが、大正八年に重きを置いた場合、性別と個別化との問題が浮かび上がる、その瞬間性の問題を扱ってみたい。性別への意識、広範囲にジェンダー意識が文学の〈場〉にもたらされた契機として、大正八年前後の同時代的文脈の捉え直しの作業から、ジェンダー理論の文学的政治学の問題を考えていく。

有島武郎と女性解放思想 ―『三部曲』「聖餐」における〈マリヤ〉の表象を視座として―   
山田 順子
 従来の研究において有島武郎『三部曲』として、主に作者の思想や信仰の内実が詳らかにされてきた。本発表においては、有島武郎が自らの想定読者に提示した『三部曲』として作品を捉え返し、「聖餐」の女性表象に焦点を当て、ジェンダーの視点から分析を試みる。第二派フェミニズムにより生まれた「ジェンダー」概念は、それまで不可視とされた女性内部の多様性や個々の女性の内なる差異を前景化することに成功したとされる(岩淵宏子『日本近代文学』第91集)。また飯田祐子氏は、初期フェミニズム批評と異なり、文学領域におけるジェンダー分析は表象空間と言語実践に目を向けてきたという。さらに「表象の領域」とは、「イデオロギーと現実、あるいは規範と主体の間にあってそれぞれと関係を持つ、意味の再生産と攪乱の場」と説明する(『日本近代文学』第89集)。
 近年、有島武郎研究会においてセクシュアリティの視点から「女同士の絆」を取り上げた研究が成された(張輝、第56回全国大会等)。確かに『惜みなく愛は奪ふ』には、「女性の連帯」の呼びかけと捉えられる記述がある。女性の連帯を阻む要因の一つとして二元論的女性観がある。家庭内の貞淑な妻/家庭外の娼婦といった具合に女性を二分し、差別や軋轢を生じさせる支配構造である。有島は『三部曲』以後、盛んに貞操について論じている。貞操は二元論的女性観や性の二重規範と関連し、女性の内部分裂を考える上で重要な問題である。文学領域における批評理論・方法として「フェミニズム」「ジェンダー」「セクシュアリティ」「クィア」と複数の重要概念があるが、先の岩淵氏はジェンダー概念が女性の集合的抑圧という歴史的現実を曖昧にし、脱政治化の傾向を内包する諸刃の剣であったとの説を取り上げている。有島の思い描いた女性解放思想の一端を明らかにし、「女性の集合的抑圧という歴史的現実」が前景化され始めた時代の地点に立ち戻ることによって、ジェンダースタディーズの有効性と限界についても考察を加えたい。