有島武郎研究会

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第51回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

 有島武郎研究会の第51回全国大会(2012年度夏季大会)を下記のように開催いたします。参加自由・聴講無料です。ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

  • 日程 2012年6月2日(土)11時開会〜18時終了
  • 会場 関西学院大学西宮上ケ原キャンパス F号館102号教室
  • 交通 JR大阪駅よりJR神戸線快速で西宮(西ノ宮)駅下車。阪急バス(甲東園行き)で「関西学院前」下車(約15分)

アクセスマップ(関西学院大学)
ポスターダウンロード(PDF149KB)
会報第50号

    • 総合司会 團野 光晴
    • 開会の辞 関西学院大学 細川 正義

【研究発表】司会 大久保 健治
『有島武郎事典』補遺 ―御園千代他三名について― 
内田 真木

特集《相互扶助の系譜》
【講演】
「賀川豊彦と相互扶助」をめぐって 
鳴門市賀川豊彦記念館館長 田辺 健二

【シンポジウム】司会 渡邉 千恵子
相互扶助の系譜 ―有島作品における相互扶助を読む― 
三田 憲子
テクストのなかの《相互扶助》 ―『星座』について ―
阿部 高裕
〈昆虫たち〉の相互扶助 ―蟻塚ユートピアの向こう側―
村田 裕和

    • 閉会の辞 山口 直孝

総会・評議員会
懇親会 関学会館レストランポプラ

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【研究発表要旨】

『有島武郎事典』補遺 ―御園千代他三名について―
内田 真木
 『有島武郎事典』(勉誠出版、二〇一〇年一一月)が刊行された際、有島武郎を語るうえで、欠かすことのできない人物ではあるが、その時点では、立項を見送らざるをえなかった人物がいる。今回、以下の人物についての調査が終了したので、その結果を報告したい。
 野村才二 【職業】税関吏。【出身】薩摩川内市。【親族・係累】父武の部下。野村の母は同郷の誼で有島家の家政を取り仕切っており、妹シマを七歳まで養育した。【経歴・事績】横浜や台湾・淡水税関長として活動する。条約改正問題に造詣が深く、武郎は、野村から帝国主義列強の脅威とアジア諸国の後進性を教えられた。
 有島健助【生没年】一八六八年八月一二日〜一九四七年四月一日。【職業】大蔵省官吏、税関吏の後、実業界に転じる。明治製菓?取締役会長など。【出身】薩摩川内市。【親族・係累】有島の本家筋の後継者。母は平佐崩れの当事者、有島加和子。最初の妻、千代子は野村才二の養女。【経歴・事績】幼少期から苦学し、武の援助を受け淡水税関吏となる。実業家に転じた後も、山本直良らの援助を受け、地歩を固めていく。少年期には、武の家に寄寓したこともあり、武郎らも兄事した。
 有島千代子【生没年】不明〜一九一七年一〇月九日。【出身】久留米市。【親族・係累】有島健助の妻、野村才二の養女(旧姓、藤田か)。【経歴・事績】横浜・フェリス女学校出身、熱心なキリスト教信仰者。若年から結核に苦しみ、鎌倉で療養生活を送った。千代子の死の一年前には、武郎は妻安子を同じ結核で亡くしており、千代子に深い同情を寄せていた。
 御園千代 【生没年】一八八九年一〇月一〇日〜一九五六年一〇月九日。【職業】有島家の女中、後、鎌倉「千代田」店主。【出身】千葉県いすみ市。【親族・係累】御園甚平、むつの二女。【経歴・事績】一九一四年末、妻安子が鎌倉に転地した際、東京から付き添ったのが千代であった。翌年九月、武郎は鎌倉の住まいを引き上げるが、千代は鎌倉に残り「千代田」店主となる。その後、千代と武郎との交流は続き、一九二〇年一〇月頃には、千代を戸籍上分家させ、財産の一部を譲渡するまでになる。一九二二から三年にかけて円覚寺近くの山ノ内に転居するが、その年の六月、武郎は自死することになる。千代は、終生、武郎の最後の手紙を手放さず、未婚のまま生涯を送ったという。

【特集 趣旨・要旨・紹介】
《相互扶助の系譜》

【司会者より】
渡邉 千恵子
 二〇一一年三月十一日に起きた史上類を見ない巨大地震、津波によって、私たちは自然の脅威をまざまざと見せつけられただけではなく、原発施設で起きた爆発事故によって、自然の生成過程そのものへの介入を企てた技術が人間を脅かす脅威と直面することとなった。だが、その後、福島原発をめぐる当局の対応のまずさが、かえって政・財・官・司・学・報が手を結んで原子力ムラを肥大化させてきたこの国の体質を白日の下にさらす契機となり、多くの人々にこれまでの生き方を振りかえさせる機会を与えたともいえる。
 また、震災直後、築き上げてきた生存の基盤を根こそぎ失った人たちを助けようと、日本全国さまざまな場所で支援活動が展開されている。人智を超えた圧倒的な破壊力に打ちのめされてばかりいるのではなく、生き残った者として誰かのために何かしたいという衝動が人々を動かし、従来の地縁血縁といった〈絆〉によるのではない、新しいコミュニケーションツールをきっかけに自発的な個人同志による〈縁〉が、支援の輪を広げていった。昨年九月の六万人規模の脱原発を掲げたアクションへの参加者を見ても、市民運動や組合運動とは無縁の人々が確実に増えてきている。
 世界に目を転ずると、三十年ほど前、福祉の削減、規制緩和、民営化路線の強化、何事も自己責任に転化するといった特徴を持つ新自由主義政策が米英を中心に推進され、日本でもその影響を受け、二〇〇〇年代になると構造改革が叫ばれた。だが、「自由」をうたった政策が引き起こした社会的格差は絶望的なまでに拡大しつつあり、一%を富ますために九九%の側に追いやられバラバラにされた人々が、世界各地で連帯し怒りの声を上げている。
 震災復興の政策や原発の補償問題を機に見えてきた国家と個人の関係、世界が直面している自由と平等の問題、まさに難問山積するなか、パネリストの方々のご発言をとおして大杉や有島の時代の「相互扶助」の理念を検証することで、〈三・一一〉以後の世界を生きるヒントを引き出せたらと考えている。

【講演要旨】

「賀川豊彦と相互扶助」をめぐって
鳴門市賀川豊彦記念館館長 田辺 健二
 私が、有島武郎研究から遠ざかって、十年近くが経ちます。今は、鳴門市賀川豊彦記念館の館長として、鳴門教育大学の現職だった頃より、むしろ忙しいぐらいに毎日バタバタしています。なぜそうなったのか。それにはいくつかの理由がありますが、最も強い動機は、今こそ賀川豊彦を再評価しなければならないという思いでした。あの毒舌の評論家大宅壮一に「賀川豊彦は、近代日本随一の人」と評されながら、一般にほとんど忘れ去られている感のある賀川の出身地に、私が赴任したという偶然が出発点ではありますが、それを今は幸運なことだったと思っています。
 有島武郎と賀川豊彦との関係については、先に一文を書きました。(「有島武郎と賀川豊彦」『有島武郎研究叢書 第八集「有島武郎と作家たち」』右文書院) そこでも述べましたように、この二人には同時代人として、いくつかの接点があります。まず、二人の周辺には、与謝野鉄幹・晶子、沖野岩三郎、原久米太郎、大杉栄などがいましたし、思想的には、クロポトキン―トルストイ―ガンディなどのアナーキズムの系譜が考えられますし、勿論キリスト教という共通の地盤もあります。また、有島は思想と実践の乖離に苦しみましたが、賀川の場合は、それが直結していたことにも興味があります。
 では、賀川豊彦の思想と実践とはどのようなものであったのか、当日はそれをやゝくわしくお話することにします。彼の膨大な事業の中心は、協同組合活動ですが、その中核的思想は、クロポトキンに学んだ「相互扶助」の精神であったと思われます。資本主義でもない、共産主義でもない、第三の道として「協同組合主義」を提唱し、実践しました。また、彼は最も重要な事業として「教育」を挙げ、幼児教育、労働者教育、農民教育、平和教育などを実践しています。
 最後に、私共の運営している鳴門市賀川豊彦記念館の事業についてお話します。この三月二十日に、十周年記念事業を行いました。その際刊行しました『創立十周年記念誌』等によって、その概要をご説明します。
 現在の、日本や世界の混迷状況を切り拓く、グランドデザイナーとしての賀川豊彦を正しく再評価したいと考えています。

〈講師紹介〉
 田辺健二(たなべ・けんじ)氏は、一九三九年、大分県に生まれる。鳴門教育大学名誉教授。鳴門市賀川豊彦記念館館長。専門は日本近代文学研究。著書に『有島武郎試論』(一九九一、渓水社)がある。

【シンポジウム発表要旨】

相互扶助の系譜―有島作品における相互扶助を読む     
三田 憲子
 有島がクロポトキンの無政府主義に共鳴し、「相互扶助論」が農場解放の思想的支柱になった事は言うまでもない。とすれば、労働者階級が台頭した時代社会状況の下で、有島作品に相互扶助が問われるのは必然と思われる。
 先ず、端的に相互扶助世界が把握できるのは「ドモ又の死」(1922年10月)であろう。「ともどもに苦労しながら、銘々が一番えらいつもりで、仲良く勉強してゐる」貧困学生の自由な連帯が示され、ブルジョアとの階級闘争が始まろうとしている。ここから、五か月前の「星座」を照射すれば、白官舎に住む貧困家庭の学生達の自由な関係性にも相互扶助を読むことが可能になる。特に、星野を介してクロポトキンの「相互扶助論」を受容した園はおぬいと結びつくのだが、その「聖人」園と「清浄無垢」なおぬいの対関係には、フランチェスコとクララが想定されていると考えられる。この中世の聖者達は私有財産を否定し、共労と托鉢の食を分け合う徹底した相互扶助を生き、「小さな兄弟団」の強靭な支柱であった。この聖人達を投影した園とおぬいが登場人物相互をつなぐ要となる展開は自然に予測される。
 しかし、「星座」続編の執筆は難航し未完に終わった以上、相互扶助の展開が不可能になる意味を考察する必要がある。有島は「宣言一つ」(1922年1月)で第四階級の労働者の台頭を伝え、彼ら自身による「問題解決」を論じている。「星座」中断の中で、有島は「或る施療患者」や「骨」等の作品群を生み出し、現実社会にうごめく絶望に満ちた無産者達を描出する。しかも、これ等の主人公は、社会の仕組みやモラルを逆転する思考や感性を身につけている。有島は、このような無産者の連帯が階級闘争を実現すると考えたのである。「星座」には、絶望の淵にいる第四階級者として星野の妹おせいが存在する。それゆえ、おせいは現実を転換する起爆剤となる可能性があり、青年達との連帯・相互扶助が当初目論まれていたと思われる。しかし、学生達は厳密な意味では第四階級者ではなく、そこに、「星座」が中絶する理由のひとつがあったと考えられる。

テクストの中の《相互扶助》―『星座』について―
阿部 高裕
 『星座』の終結部近くに、園が、自分の胸に突き上がってきたおぬいへの恋愛感情を「自然ないゝこと」としている箇所がある。この箇所は、作品の冒頭部近くで、園とおぬいが「抱き合ふ」のを「いゝこと」としていた語りをそのまま引き写したような形になっている。焦点化人物が次々と入れ替わる構成になっていることや、『星座』の続編が幻で終わったことなどから、『星座』は断片性の強いテクストである、という印象が強い。しかし、いま指摘した冒頭部と終結部の対応関係に着目すれば、テクストの諸断片を体系づける〈枠〉の働きをそこに見出すことが可能である。そして、この〈枠〉は、脈絡がなさそうな諸断片の集積の中から、プロットを浮き上がらせるための梃子としても機能している、と考えている。
 『星座』の物語構造に骨組みを与えるこうした構想力の働きと、テクストの語りとの関係に着目しながら、本発表では、作中の人間関係の様態について考えて見ることにしたい。もう少し具体的に言うと、『星座』の登場人物たちは、互いが互いを批評、もしくは対象化し合っているとしばしば言われているが、そのように見える関係のありようを、「対話」(バフチン)という観点から改めて捉えなおしたい、ということになる。
今回のシンポジウムのテーマ設定は、おそらく「3・11以降」が強く意識されているのだろうと想像する。そこで、テクストの分析作業を踏まえた上で、『星座』と『相互扶助論』(周知の通り、『星座』は、『相互扶助論』について言及をしている)との間にインターテクストの関係を見出し、いまの日本を生きる私たちにとっての《相互扶助》という課題について、私見を述べてみたい。

〈昆虫たち〉の相互扶助―蟻塚ユートピアの向こう側―
村田 裕和
 クロポトキンから思想的影響を強く受けた有島武郎と大杉栄は、周知の通りともに1923(大正12)年に亡くなった。両者にはさまざまな共通点が見いだせるだろうが、子煩悩な父親が、成年に達する前の子どもたちを残して世を去ったという点でも両者は重なっている。かえりみれば、有島が狩太農場を解放した際の記念碑に立てられた「農場解放記念碑文」には、「協力一致と相互扶助との観念」の文字が農民たちへの「告別の言葉」として刻まれていたし、大杉栄がクロポトキンの『相互扶助論』などに触発されながら「自由連合・自由合意」の原則をのちのアナキズム運動に遺したことも両者の共通点といえるかもしれない。「相互扶助」の思想とその実践は、まさにそうした〈残された者たち〉の生きる知恵として真価が問われるのではないだろうか。
 ところで、「相互扶助」こそ生物の進化・人類の進歩を推し進めてきたとするクロポトキンの『相互扶助論』(大杉訳、1917年)には、昆虫や小動物の生態から観察された「相互扶助」の実例が多く含まれている。やがて大杉は、ファーブルの『昆虫記』の全訳を計画して、1922年にその第1巻を叢文閣から出版する(有島武郎はその推薦文を書いている)。大杉の死によってこの企画もまた〈残された者たち〉の仕事となるのだが、翻訳は複数の役者がリレーするかたちで無事に完結に至っている。昆虫や小獣たちの世界から人間社会を見通す想像力は、『イソップ物語』から、近年の漫画・アニメに至るまで普遍的ともいえる広がりがあるが、そうした作品の中では、庇護者を失った者たちはどのような「相互扶助」を実践しているのだろうか。本発表ではクロポトキン、有島武郎、大杉栄の「相互扶助」から『昆虫記』へ、さらにさまざまな〈昆虫たち〉〈残された者たち〉の生へとたどりながら、相互扶助に基礎づけられた共同体や連帯の始まり方を考えてみたい。