有島武郎研究会

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第52回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

 有島武郎研究会の第52回全国大会(2012年度冬季大会)を下記のように開催いたします。参加自由・聴講無料です。ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

  • 日程 2012年12月1日(土)11時開会・16時30分終了
  • 会場 埼玉学園大学 3号館201教室
  • 交通 JR武蔵野線・埼玉高速鉄道「東川口」駅よりスクールバス約9分、JR武蔵野線「東浦和」駅下車徒歩約15 分

→アクセスマップ(埼玉学園大学)
ポスターダウンロード(PDF68KB)
会報第51号

    • 総合司会 奥田 浩司
    • 開会の辞 掛野 剛史

【研究発表】司会 唐澤 聖月
志賀直哉「濁つた頭」の試み
太田  翼
【臨時総会・評議員会】

【シンポジウム】司会 團野 光晴

特集《〈友情/絆〉を読む》
志賀直哉における友情
富澤 成實
〈知識人〉言説のなかの有島武郎
木村 政樹
蝕まれるべき友情 ―小説構造から見た『白樺』派の小説―
中村 三春

    • 閉会の辞 山口 直孝

懇親会

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【研究発表要旨】

志賀直哉「濁つた頭」の試み
太田  翼
 本多秋五が「志賀の道徳的権威からの解放、すなわち、リアリスト志賀の自己確立の過程で、『濁つた頭』は劃期的な意味を持つ作品であった」(『『白樺』派の文学』)と述べているように、「濁つた頭」の志賀文学における重要性は早くから指摘されている。先行研究の多くは、主人公津田の葛藤と志賀のそれを同一視し、内村鑑三門下からの離脱という体験を志賀の作家的な転換点と位置づける。
 しかし、作家自身の体験を過剰に読み込むことは、この作品の表現上の達成を見落とすことに繋がりはしないだろうか。すでに確認されているように、「濁つた頭」は、着想から発表まで実に数年もの月日が費やされている。発表より二年半遡る四一年十月十八日の日付のある「二三日前に想ひついた小説の筋」には、すでに現行テクストとほぼ変わらない筋が記されているのだが、その末尾は「夢と現実がゴッチャくになる所が書きたい」「これを書く場合には、頭の変調を来たす動機と、夢ながら殺人といふ恐ろしい罪を犯す動機とを、簡単に、しかも、ウンと鋭く書いて、仕舞いの夢か現実かと迷ふところを中心として、精しく書いたら如何かしら」と具体的な見通しを述べながらも、「然しそんな事は今の自分には少し荷が勝つてゐるやうだ」と自身の技量不足を嘆く記述で締められている。恐らくは、右の課題を実現するための表現を模索する期間として、数年にも及ぶ長い時間が必要とされたのだろう。
 この時期の志賀が新しい表現を模索していたことは、例えば、明治四二年頃のものとみられる手帳に「(或る部分の描写をSynnove Solvakkenの108pageのTourが怪我する所のやうに主人公の感じだけをうまく書いて其方面から以外は何も書かぬというやり方面白し 一種の印象描写だ)」とあることなどからうかがえる。前年発表の「網走まで」に見られたような、主観を抑えた視覚描写を中心とする写生的表現とは明らかに異なるものであろう。本発表では、執筆当時の志賀の関心の所在を明らかにし、「濁つた頭」においていかなる表現上の方法が試みられたのかを探りたい。

【特集 趣旨・要旨】
《〈友情/絆〉を読む》

【司会者より】
團野 光晴
 今回のシンポジウムのタイトルは「〈友情/絆〉を読む」であるが、〈友情〉と〈絆〉は異なるものではないだろうか。東日本大震災以来、〈絆〉ということが喧伝されている。しかし、三十年ほど前であればこれは〈連帯〉や〈団結〉となっただろうし、こちらのほうが〈友情〉に近いように思われる。十七年前の阪神大震災の時には今日ほど〈絆〉は強調されず、むしろ新しい潮流として多くのボランティアの出現が鮮烈な印象を与えた。そこからすると、やはり〈絆〉とは血縁を典型とした生活圏内の自然な繋がり、〈友情〉とはそれを超えた意志的な繋がりなのであろう。実際A・ボナールは「偉大な友情というものは、人間性についての、貴族主義的な観念に由来するものだ」としつつ、「いっさいの真の友情は、それを味わっている人々を、おのれの生活を超え、おのれの生活を見おろす場所にまで高める」「凡庸な人間でも、仲間や同盟者や共犯者となることはできる。単純な人間でも兄弟になれる、だが友人になれるのは、教養のある人間だけであろう」と述べる(『友情論』安東次男訳)。友情は教養によって生活を意志的に括弧に入れることの出来る精神的貴族によって担われるわけだ。とすれば、阪神の〈友情〉から東日本の〈絆〉への変遷は、貴族から大衆へという〈民主化〉の現れと評価できるのかも知れない。事実、「あじさい革命」とも呼ばれた反原発デモなどは従来にない新しい動きだ。しかしこの〈民主化〉の中でむき出しになる「生活」が、さまざまな矛盾を生み出していることもまた否定できない。「ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつく」(「『である』ことと『する』こと」)という丸山眞男の掲げた理想は、今最も切実な言葉として響く。精神的のみならず階級的にも真に貴族的であった有島武郎及び白樺派における〈友情/絆〉を検討することで、状況に訴えるところのあるシンポジウムとなることを期待する。

志賀直哉における友情
富澤 成實
 八八年間にわたった志賀直哉の生涯は、多くの人々と実に広い交友を結んだものだった。なかでも武者小路実篤との友情は、学習院での出会い以来、七〇年近くもの長きに及ぶ厚いものだった。死去の前年に武者小路から贈られたという、「この世に生きて君とあい/君と一緒に仕事した/君も僕も独立人/自分の書きたい事を書いて来た/何年たつても君は君僕は僕/よき友達持つて正直にものを言う/実にたのしい二人は友達」という書を、最晩年の志賀は自宅の病床で折々眺めていたという。「実にたのしい二人は友達」として両者は快い関係を結びながらも、しかし「君は君僕は僕」と率直に述べられたとおり、それぞれ「独立人」である以上、両者の間に対立や反発が生じることは不可避なことだった。そればかりか、明治四四・四五年の「ノート10」に「武者は不愉快な性質を持つた男である」と書き、明治四五・大正元年の「ノート11」に「前年の重見の事 白樺を離れる事 殺す事を思ふ」とさえ記した。ときに確執や憎悪、殺意の感情を伴いながらの交わりが両者の「友情」だった。それはけっして消極的な意味しかもたないというわけではないだろう。
 武者小路との親交よりさらに早く始まったのが、有島生馬との関係である。彼らは他の友人も交えながら、回覧雑誌を作り、旅行に出掛け、また娘義太夫に夢中になることを通じて親睦を深め合った。道徳的で生真面目な武者小路とのある種の緊張感を伴う関係とは対照的に、和やかで過剰に親密でさえある友情であった。ところが、留学を終えて帰国した生馬と再会したとき、彼の態度に違和感を覚えざるをえず、これに端を発した彼との複雑な関わりはやがて、生馬宛ての公開書簡という形式で書かれた『蝕まれた友情』(『世界』、昭22・1〜4)として描かれることはよく知られているとおりである。老年の志賀は、作品の冒頭で「出来るだけ公平に(中略)書いて見よう」と述べながらも、彼への不快感や不信感を露骨に表明した。しかしながら、「君が君の持つてゐるよきものを発揮し、再び画業に精進するやうな事でもあれば、どんなに嬉しい事か。さういふ奇跡は起こらぬものだらうか」というように期待を寄せる末尾からは、今なお命脈を保つ友情を看取することができるだろう。と同時に、当初抱いていた生馬への友誼のなかにすでに嫌悪に結び付く感情も胚胎していたということもできよう。
 武者小路や生馬との交友ばかりではなく、『白樺』同人全般との関係もそれほど単純なものではない。志賀直哉の日記や作品からもよく窺えるように「友だち耽溺」と友達嫌いの落差は非常に激しく、しかもそれは背中合わせになっているようである。武者小路実篤や有島生馬との交友を中心に、作家志賀直哉にとって「友情」とは何かについて考察を試みたい。

〈知識人〉言説のなかの有島武郎
木村 政樹
 晩年の有島武郎を取り囲んでいた言論のひとつとして、〈知識人〉言説が挙げられる。このことを端的に示すのは、「宣言一つ」(一九二二・一)をめぐる論争である。「知識人」「知識階級」「インテリゲンチャ」論としてあまりにも有名な「宣言一つ」だが、じつはこれらの語彙は同論考のうちには見当たらない。それらはすべて、論争のなかで使われたものである。本発表では、この三つの語を用いて展開された言論を、〈知識人〉言説と名づける。もちろんそれは「宣言一つ」が発表される前から存在した。そこで、歴史を遡ってその論調を整理したうえで、改めて有島とその周辺の議論を位置づけることをめざしたい。近年、〈知識人〉に関する研究は進んでいるが、その多くが昭和期に関するものであり、それ以前に関しては論文も少ない。以上の考察は、それらの先行論をふまえたうえで、当時の言論状況を再構成する試みのひとつとしてなされる。
 本発表が対象とする範囲の〈知識人〉言説の特徴として、それが階級概念との関係で多く使用されたことが指摘できる。ブルジョア階級とプロレタリア階級の対立を強調する社会主義的な言論のなかで、〈知識人〉言説はその図式的把握に違和を持ち込むもととなった。語の意味の不明瞭さゆえの、〈知識人〉像の氾濫、論議の錯綜と混乱は、〈知識人〉という概念にある意味での豊饒さ、ないしは過激さをもたらした。これらの語彙は、実存を賭けた他者への態度表明といった、決定的な場において浮上することとなる。
 現在、東日本大震災を機として、「絆」という、意味の茫漠とした語が広く流布するなか、一部では「当事者性」や「分有」といった用語に注目が集まっている。こうした状況下で〈知識人〉言説について考えることは、近代日本のジャーナリズムと思想の歴史をふりかえり、今日のそのあり方を見直すためのよすがとなるだろう。

蝕まれるべき友情―小説構造から見た『白樺』派の小説―
中村 三春
 「来た、見た、勝った」式の戦争文学や、何事もなくハッピーエンドに終わる恋愛ものなどは、決して意味のある小説とはなりえない。異化の理論を提唱したシクロフスキーが『散文の理論』の冒頭で述べているように、恋愛小説には障碍がつきものである。友情なるものが、たとえ存在したとしても、それは小説構造を有効化するための契機に過ぎない。もちろん、恋愛もそうなのである。大岡昇平が漱石論(『小説家夏目漱石』)において、「小説とは要するに『仕掛け』であるということは忘れてはなりません」と警鐘を鳴らしたことを忘れてはならない。
 その意味では、『宣言』(大六・一二、新潮社)や『友情』(大九・四、以文社)は、まことによくできた、このうえなく定型的な小説にほかならない。これらの小説には、人物関係やアクション(行為=筋)の点において、細部を除けば、意外性というものが全くない。親友同士の男が、同一の女を巡って三角関係に陥り、一方が他方を裏切る(または、出し抜く)という成り行きは、途中まで読めば誰にも分かる。「愛」や「自己」を尊崇した『白樺』派の作家としては、恋愛と友情という、いずれも生命力の根源に根差す感情を拮抗させることで、彼らの主張を充足させようとしたのだろう。だが、それらは両者相俟って小説の構造化に寄与しているに過ぎない。友情は、小説においては、必ずや蝕まれるために導入されるのである。
 逆に、蝕まれた友情の真実を語る素振りをする『蝕まれた友情』(昭二二・七、全国書房)は、実に不思議な小説で、ほとんどヌーヴォー・ロマンと言ってもよい。この語り手「僕」は、「君」との交遊の来歴を現在に至るまでの時間軸を追って克明に語るのだが、いったい何が問題でどう蝕まれたのか、全然明確ではない。だが、これこそが友情の真実ならば、「かういふ直接な書き方でなく、最初から小説的構成をして、のびくと書けばよかつた」という結末近くの悔悟は、もしかしたら、拵えられた「小説的構成」を誇る『宣言』や『友情』系統の小説構造を逆説的に照射する叙述ではないのか。定型を拒む時、そこには蝕まれるべき友情もまた、存在しえなくなるのである。
 本発表では、『白樺』派のいくつかのテクストを材料として、小説構造における蝕まれるべき友情の位相を探る。