有島武郎研究会

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第55回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2014年4月28日更新
 有島武郎研究会の第55回全国大会(2014年度夏季大会)を下記のように開催いたします。参加自由・聴講無料です。ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

  • 日程 2014年6月14日(土)11時開会・17時終了
  • 会場 大阪教育大学柏原キャンパス 共通講義棟 A-212教室
  • 交通 近鉄大阪線 大阪教育大前駅下車、徒歩約15分
    • 【大阪方面から】
      • 大阪上本町駅・鶴橋駅から、[榛原] [名張] [五位堂]行き各準急で約30分。急行の場合、国分駅で準急に乗り換え
    • 【奈良方面から】
      • 八木駅から、[大阪上本町]行き準急で約20分。急行の場合、五位堂駅で準急に乗り換え
  • 宿泊案内→[file:arishimaken:hotels.pdf](193KB)
  • 懇親会案内→[file:arishimaken:party.pdf](593KB)

=プログラム=

  • 開会の辞(11:00) 外尾登志美

【研究発表】
司会 團野 光晴
有島武郎『卑怯者』再読
荒木 優太
【昼食休憩・評議員会】(12:00〜13:30)



特集《〈教室〉のなかの白樺派》
【報告】(13:30)
司会 阿部 高裕
『生れ出づる悩み』について
 ―〈共感〉を離れて教材的価値を問い直す―
渡邉 千恵子
高専生と白樺派を読む
山下 航正
文学教育は如何になすべきか
生井 知子
【討議】(15:30)

  • 閉会の辞 有島武郎研究会会長 三田 憲子

【総会】(16:30)
【懇親会】(18:00) (会場)三平寿司 大阪府柏原市国分西2丁目1-26

  • 懇親会案内→[file:arishimaken:party.pdf](593KB)

→発表要旨は「続きを読む」をクリック
【研究発表要旨】

有島武郎『卑怯者』再読
荒木 優太
 短篇小説『卑怯者』(大正九年一一月)は有島武郎研究にとってメモリアルなテクストである。というのも、戦後、有島研究の草分けとなった本多秋五『「白樺」派の文学』の「有島武郎論」は、正に『卑怯者』論から始まっていたからだ。本多は、『卑怯者』を「出来のよくない」「私小説」とみなし、有島の人柄分析の材料としている。そして、その評価傾向は、論者によって振れ幅があるものの、基本的に踏襲されているといっていい。しかし、私小説的コードを宙吊りにしたとき、テクストは別の相貌を見せる。繰り返される「子供達の群れ」といった表現、「彼れ」を用いた三人称の語りの詐術、「旗雲」という冒頭部の象徴性など、ディテールを丁寧に追っていくと、そこには「私小説」の語で想起される非物語性(事実性)とは一線を画した物語的世界が広がっている。『卑怯者』には、主観的に構成された小説世界がある。そして、その読解を手がかりにして、後年有島が「子供の世界」(大正一一年五月)などで展開した子供論(教育論)を再検討してみることができる。有島は「子供の世界」を「大人の世界の一部」ではなく「独立した世界」とみなし、その異質性が翻って大人社会に対して創造性を寄与することになるだろうと予告していた。大人はそこで積極的な介入は許されず、子供の教育方法としては放任主義が最も好ましい。この「独立」性尊重の性格上、今日、有島にとって「子供」とは〈他者〉なのだ、という評価がしばしば与えられる。だが、その〈他者〉論が成立する前提条件はいかなるものなのか。子供が〈他者〉だったとして、では『卑怯者』に登場する「子供達の群れ」とは〈他者達の群れ〉であり、社会にとって創造的なものなのか。『卑怯者』読解を仲介させることで、有島が理想を託した「子供」像を相対化し、その論理に宿る先入見を浮かび上がらせるきっかけを作りたい。

【特集 趣旨・要旨】
《〈教室〉のなかの白樺派》

【司会者より】
阿部 高裕
 文学を学ぶ〈教室〉のなかのテクストとしてまず思い浮かぶのは、教材としての小説(や詩や劇)であるだろう。教材に関する指導書や研究論文、教育の方法論や文学理論などもまた、〈教室〉という場に持ち込まれるテクストだといえそうだ。他にはないだろうか。ロバート・スコールズは次のように述べている。文学の授業で扱うテクストは、「口頭の、書かれた、あるいは行動のかたちで現れる学生たちの反応をふくむ、あらゆる種類の後(ポスト)=テクストとも関連している。テクストへの反応はそれ自体つねにテクストである」(『テクストの読み方と教え方』、一九九九年七月、岩波書店)。
 学生(生徒)が授業中に発した言葉、集中した姿勢(もしくは無関心な態度)、答案、レポートなどといった「テクストへの反応」それ自体も、〈教室〉のなかのテクストだと言えるわけである。さらには、そうした「テクストへの反応」の基盤となっているメディア・教育・文化の環境そのものも、分析・読解されうるテクストとしてあるだろう。
 さまざまなテクストが交錯する場として〈教室〉をとらえ、そこでの白樺派テクストの意味や働きについて考えること。これを本シンポジウムのねらいとしたい。別の言い方をすれば、〈教室〉における白樺派テクストの読まれ方と、〈教室〉という場に働くさまざまな力とはどのように関わっているのかについて考察したい、ということになる。そこから、生徒(学生)と教員の関係、読むことの自由と不自由の関係、読みのコードや小説の価値の問題などに議論が広がれば、とも考える。パネラーのお三方は、中学高等学校・高等専門学校・大学と、それぞれ異なる現場で教育に携わっている。多角的な検討から活発な議論へとつながるよう、期待している。

『生れ出づる悩み』について
 ―〈共感〉を離れて教材的価値を問い直す―
渡邉 千恵子
 「教室のなかの白樺派」というテーマをいただき、有島武郎の作品が教科書教材としてどの程度採用されているかといえば、ひじょうに少ない。これはもはや、有島作品の「国語」教材としての寿命が尽きたということなのか。
 有島作品の教科書採録化をめぐっては、石川巧氏の「教育言説のなかの有島武郎」(『有島武郎研究』第一二号、二〇〇九年九月)にその経緯は詳しい。それによれば、有島作品の一部がいかにその時々のイデオロギーに絡めとられ、受容されてきたかが明らかである。これは有島作品に限らない。文学の教材化を通じて文学作品が受容されることで、かえって道徳的価値の注入という役割を担わされるということに、「国語」教員は常に自覚的であらねばならないだろう。
 そこで、教材化に伴って必ず用意されている「学習の手引き」なるものの発問のあり方を検証し、若者の苦悩への〈共感〉を強いる従来の読まれ方を再考するとともに、学習者との間に〈共感〉が成立するとしたら、それはどのようなことばの働きによって作られるのか。そこを検証することによって教材としての新たな価値の発見を試みたいと考えている。
 しばしば日文協の国語教育部会の研究集会での発表や基調報告において、現場で教えている多くの教員が、新しいネット環境の問題やスクールカーストの問題等に学習者が晒されている状況を危惧することに同感だが、「国語」という教科が何らかの形で生徒自身の内面を変革し解決するべき役割を負わされているかの感を拭えない。   
 そうした中でそもそも「他者」理解は、いかにして可能なのか。また、教室で教科書を通じて文学作品を読むという行為を、道徳的価値に回収されない形で成立させるにはどうすればよいのか。『生れ出づる悩み』をテクストに、考察してみたい。

高専生と白樺派を読む
山下 航正
 「国語の授業で文学を教えるとはどういうことか」。学生時代に出会ったこの問いは、教育現場に出た後も常に私のなかに在る。授業においては、作品の読みに関して幾つかの設問を出題し、その解答を提示・解説すればよいというわけには行かない。評価(試験)を鑑みた場合に正解は要請されるのだが、それはともすれば学習者が獲得した読みを否定することになり、学習者を文学嫌い(あるいは国語嫌い)にさせてしまいかねないからである。また、個々の学習者が自分なりの見解=自分の読みを持てばよいともできない。先述の文学嫌い(国語嫌い)を育ててしまう危険性は回避できるかも知れないが、作品を自由に読み自分の読みを持つことを目標とするのであれば、教室という集団で学ぶ場において文学を扱う必然はなくなるからである。
 これまで私は、冒頭で示した問いを「文学を読むとはどういうことか」というアポリアと地続きのものとし、その解決のために田中実氏の〈第三項〉理論が有効ではないかと考え、取り組んできた。それは、文学の読みの問題に〈超越〉という概念、「自己の認識の枠組みでは了解し得ない・〈了解不能〉の領域」(相沢毅彦「〈超越〉とポストモダン ―― 「語ることの虚偽」の課題を内包しつつ―― 」(平成二十四年一二月、「日本文学」))を導入し、〈語り〉の観点から作品を捉えることで、「文学」と「読む」ことの双方を共に活かすということ、換言すれば、文学の読みというアポリアに対して文学研究と文学教育研究の相互乗り入れを行い、双方の充実を図る、ということである。それを今回の特集に重ねたとき、私小説というジャンルを確立した白樺派の文学の意味と、現在の学習者における白樺派文学の読まれ方とが、同時に問われることになると思われる。
 当日の発表では、勤務校で予定している授業実践(志賀直哉「小僧の神様」、同「清兵衛と瓢箪」)も、可能であれば扱いたい。日本近代文学における白樺派の位置付け・意味付けという、浅学の私には手に余るテーマも関わることが予想されるが、これについてはご参加の諸氏に多くを学ばせていただきたい。本発表が、文学に価値を認め、その意義を追究しようとする本会の、僅かでも一助となれば幸いである。

文学教育は如何になすべきか
生井 知子
 現在、学会で語られたり学術雑誌で使われている言葉と、大学の教室で語られ理解される言葉との間には、大きな隔たりがある。私たち教員は、学生に通じないような概念を振り回すのではなく、文学が好きで文学を学びたいという者の初心に立ち返って、小説のすごさを明らかにしていく、その秘密をさぐっていく、その作業を学生と共有していく事が必要なのだと思う。
 さて、教育現場をふりかえってみると、文学作品を読んでの学生の発言や態度で、いくつか気になるものがある。主人公の生き方に対する道徳的な批判、「真相」発見への興味、「ふだん読む文学と違っていて分からない」という反応、歴史的な状況についての無知・無関心などである。いずれの場合にも共通するのは、作品を作品として細部まで丁寧に読もうとはしていないということ、自分が基準で、そこから一歩も作品の側に歩み寄ろうとはしていないということである。
三〇年前の大学では、教育ということを意識してカリキュラムを組み立てたり、授業改革を積極的に企てる先生は少なかったように思うが、今や、教員が勝手に自分のしたい研究をし、学生を放置するようだと、「文学」をきちんと味わえる次の世代が育たない。これはとてもまずい状況である。中・高・大学における文学教育というのは、いかにあるべきかを考え、文学教育というものを立て直していかないといけない段階に来ている。
 さて、では何をなすべきか。有島武郎や志賀直哉を教材としての私の授業の実践報告をし、会場にお越しの皆様と知恵を出し合って、今後の文学教育の在り方を少しでも見出していけたら、と願っている。