有島武郎研究会

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第53回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2013年5月8日更新(会報誤記訂正差し替え)

 有島武郎研究会の第53回全国大会(2013年度夏季大会)を下記のように開催いたします。参加自由・聴講無料です。ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

  • 日程 2013年6月1日(土)11時開会・16時30分終了
  • 会場 金沢大学サテライトプラザ
  • 交通 JR 金沢駅からバス(北陸鉄道)[約5分]→武蔵ヶ辻で下車後、徒歩[約5分](北國銀行から尾崎神社へ進み、左側)

→アクセスマップ(金沢大学サテライトプラザ)
ポスターダウンロード(PDF59KB)
会報第52号

    • 総合司会 團野 光晴
    • 開会の辞 奥田 浩司

【研究発表】
司会 大久保 健治
『サムソンとデリラ』試論 
 ―ジョン・ミルトン『闘士サムソン』との比較から―
山田 順子
【昼食休憩・評議員会】

【シンポジウム】
司会 瀧田  浩

特集《学習院という〈場〉》
学習院における『白樺』イメージとその継承
 ―三島由紀夫を視点として―
杉山 欣也
有島武郎における「学習院」からの逃避
 ―自由主義教育や文芸サロン「草の葉会」等の周辺から―
杉淵 洋一
〈学習院〉と〈早稲田〉
 ―反自然主義と自然主義との関係として―
相沢 毅彦

    • 閉会の辞 山口 直孝

懇親会

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【研究発表要旨】

『サムソンとデリラ』試論 
 ―ジョン・ミルトン『闘士サムソン』との比較から―
山田 順子
 『三部曲』は『或る女』と『惜しみなく愛は奪ふ』の中間にある重要な作品として位置付けられている。従来の研究では「これが私の旧衣を脱する最後のものです」(大正8年12月吹田順助宛書簡)との作者の言葉に基づき、『三部曲』はその主題に関してまとめて論じられることが多かった。特に『サムソンとデリラ』に限った分析は少ない。しかし、『サムソンとデリラ』第一稿は「白樺」(大正4年9月)に発表された後に『大洪水の前』、『聖餐』とともに『有島武郎著作集』第十輯(大正8年)に収録されたという経緯がある。この時点ではあくまで単独作品として発表されている。
 先行研究として、宮野光男氏「『三部曲』論」(『有島武郎研究』瀬沼茂樹、本多秋五編)が三部曲における女性像を聖書の記述との比較から分析する。また石丸晶子氏「『サムソンとデリラ』―初稿と完稿の世界―」(『有島武郎―作家作品研究』)は第一稿では「男女交渉の一面」を描こうとしたが、最終稿では主眼は「エホバと人とに」置かれると結論付け、作者の思想の成熟を指摘すると同時に、その晩年の凋落をも予兆するものとして、この作品を捉えている。
 これらを踏まえた上で、まず、第一稿から最終稿への改訂部分に着目する。次に、小玉晃一氏による「「サムソンとデリラ」、「大洪水の前」、「聖餐」からなる『三部曲』など、むしろミルトンと較べた方が面白い叙事詩的作品」(『有島武郎研究叢書』第九集)という指摘に基づいて、17世紀英国の叙事詩人ジョン・ミルトン作『闘士サムソン』(Samson Agonistes)との比較検討を通じて、戯曲作家としての有島武郎の独自性に光を当てたい。

【特集 趣旨・要旨】
《学習院という〈場〉》

【司会者より】
瀧田  浩
 白樺同人の文学(者)は学習院という場と結びつけて論じられてきたが(二十年以上前に私も『輔仁会雑誌』を繰って、初期武者小路実篤をめぐる論考を書いたことがある)、学習院という場を新しい視点から捉え直したのは、関川夏央と亀井志乃の論考であろう。関川の「白樺たちの大正八年」(『文学界』二〇〇〇年一月)は大久保利謙『日本近代史学事始め』(岩波新書)に基づき、学習院の後輩たちにおける白樺文学の熱烈な支持層の存在を記し、学習院の沿革や階層・爵位の問題などを丹念に調べた亀井は「〈学習院〉の青年たち」(『文学』二〇〇二年一一・一二月)で、友情の連帯と芸術への憧憬、さらには武者小路のナイーヴな心性を、個性的な論法で提示した。
 関川・亀井の両論考が注目しているのが、武者小路実篤の自伝的短編小説「小さき世界」であり、学習院内における温厚な上級生クラスと粗暴な下級生クラスとの暴力も辞さない対立を描いている。武者小路自身をモデルとした広次は、肉体的には貧弱で小心な部分もあるが、強い胆力と大胆な勇気をふるい、級友と協力して下級生たちと交渉し、最後は下級生クラスに謝罪させることに成功する。末尾は「彼は下の級に卒業する事が出来たのであつた」とある。武者小路にとって、学習院は十代にして早々に「卒業」するべき「小さき世界」であったことがわかるが、関川は「ずいぶん子供っぽい印象で」、「当時の学習院の校風は、旧制中学・高校に較べて相当に紳士的というか、少なくともリベラルだったようだ、戦後的といってもよい」とまとめている。有島武郎は、「ずいぶん子供っぽい」「戦後的」な学習院にあきたりずに、学習院から離れていったと考えることもできるだろう。
 特集発表者のひとり杉山欣也氏は『「三島由紀夫」の誕生』(翰林書房)で、三島由紀夫は学習院という場で誕生したと措定した。戦前の学習院を戦後的に過ごした白樺同人たちと、十五年戦争と重なる特殊な時期を学習院で過ごし、戦後を否定しようとした三島が、どのように交差するのかを考えると、この特集に対する興味は尽きない。
 杉山正樹は『郡虎彦 その夢と生涯』(岩波書店)で、白樺派の異端者・郡虎彦に対する三島由紀夫の偏愛を強調するとともに、武者小路実篤が三島と郡を重ねて見ていたことも明らかにしている。杉山欣也氏の著作で触れられているように、三島が学習院高等科時代に仲間とつくった同人誌『赤絵』は志賀直哉「万暦赤絵」とつながってもいる。白樺文学と三島由紀夫を接続させようとする時、その接点は意外に多いことに気づかされる。今回の特集は、白樺文学を新しい角度から再検討する良い機会になるであろう。三人の発表者による大胆な議論を期待している。

学習院における『白樺』イメージとその継承
 ―三島由紀夫を視点として―
杉山 欣也
 本発表では、学習院における文芸の生成と展開の〈場〉を、学習院に関連する諸雑誌を媒体とした言説空間と規定することから考察をはじめたい。
 学習院には『学習院補仁会雑誌』(一八九〇(明治二十三)〜)という雑誌がある。のちに初期『白樺』同人となる学生たちによる文芸活動としては回覧雑誌『望野』『麦』『桃園』が名高いが、最初に活字化された有島作品である「鯉説」が『学習院補仁会雑誌』三一号(一八九四・五)であることをはじめ、同誌との関わりを無視することはできない。したがって、学習院という〈場〉における文芸の系譜を考える上ではこの雑誌がひとつの有力な指標となることは間違いない。また、学習院からは、戦時下の一九四〇年代に平岡公威(三島由紀夫)を中心とするグループ、新制大学となった一九四〇年代後半〜五〇年代には吉村昭・津村節子を中心とするグループが出た。彼らもまた『学習院補仁会雑誌』に依ってその活動を開始している。そして、彼ら学習院の学生作家たちは『赤絵』(三島、東文彦、徳川義恭)『しりうす』(三島ほか)『学習院文芸』(のち『赤絵』と改称。吉村昭、津村節子ほか)といった同人誌を創刊してさかんな活動を行った。それらの活動はいずれも『白樺』の存在を強く意識したものであった。
 そこで本発表においては、これら学習院における文芸活動の系譜における視点人物として三島由紀夫に着目し、彼の言説に見られる学習院や『白樺』同人、あるいは後輩作家たちに寄せる感情を整理することで、学習院文芸の流れの中にある『白樺』イメージを分析してみたい。この作業によって、学習院という〈場〉における『白樺』の系譜と継承とを浮き彫りにしたい。
 なお、学習院は言うまでもなく教育機関であり、教員の陣容や教育内容も問題にすべき点であるが、今回は踏み込めないと思う。

有島武郎における「学習院」からの逃避
 ―自由主義教育や文芸サロン「草の葉会」等の周辺から―
杉淵 洋一
 有島武郎は、一八八七年九月に学習院の予備科第三級に入学して寄宿舎生活をはじめ、一八九六年七月に中等科を卒業、九月には札幌農学校へと進学する。この間の有島については、当時の皇太子(大正天皇)の学友に推挙されるといった優等生としてのイメージが強いであろう。しかし、この十年の長きにわたる学習院での生活をのちに有島は振り返って、「余ハ学習院ニ於ケル教育ニ負フ所ナシト思ヘリキ。」とし、良友を持てず孤独に苛まれた続けた趣旨の言説を日記に書き残している。
 有島が、自らの母校である学習院という教育機関に対して、このような否定的な言説を残している点はたいへん興味深いところである。
 そこで今回の報告では、有島における教育観、ないしは教育現場というものへの考えの変遷についての考察を試みたい。具体的には、札幌農学校での恩師・新渡戸稲造との出会い、内村鑑三との交流、アメリカ・ヨーロッパにおける留学体験、東北帝国大学農科大学、同志社大学等において実際に教壇に立つ講師としての姿、第一高等学校や東京帝国大学の学生たちを集めて主宰していた〈草の葉会〉や、盟友・鶴見祐輔が同様に学生たちを集めて開催していた〈火曜会〉への、有島の参加の在り方等に目を投じてみたいと思っている。そこから、少年時代の学習院における就学体験が、その後の有島の教育観に担った役割についての検討を試みたい。
 一方で、実生活の問題として存在していた三人の息子たち(行光、敏行、行三)への教育に際しての、有島の学習院における体験が落とした影響についても触れられればと考えている。有島行光(森雅之)、神尾行三、有島暁子等によって語られる有島武郎からの教育的影響や、教育者としての生前の有島武郎のイメージについての言説に検討を加えながら、学習院での教育体験が、有島にとっては「負フ所ナシ」という否定的な解釈に至った原因について僅かばかりでも指針を示すことができれば幸いである。

〈学習院〉と〈早稲田〉
 ―反自然主義と自然主義との関係として―
相沢 毅彦
 日本近代文学史において、自然主義文学から私小説という大きな流れが存在する一方、それと対置した形で反自然主義文学が存在するとされるが、「学習院」出身者がその殆どであった白樺派もまた「反自然主義」として目されることが多い。しかし、どのような意味合いにおいて「反」とされるのか、その点では意見が異なると思われる。本発表ではこのような基本的かつ極めて困難と思われる問題(自然主義と反自然主義との差異)から出発していくことにしたい。その際、シンポジウムのテーマが「学習院」であるため、題目には白樺派的立場を〈学習院〉とし、自然主義的立場をその牙城であったとされる〈早稲田〉と記すことにしたが、これらの名称は単に便宜的なものとして用いた。ただ、〈学習院〉についてはテーマの解説文として出されている三島由紀夫への系譜をも考慮し、無関係ではない可能性も念頭に置いている。
 ここでの自然主義ないしリアリズムとは、例えば、「「事実」のありのままの描写」といった、(「想像」あるいは「観念」も含めた)「自己が捉えた対象」をそのまま写そうと試みる創作方法や、あるいはエミール・ゾラが「素材の許す限りの科学的厳密を以て小説に適用された実験的方法」(『実験小説論』)と述べたような、「自己が捉えた対象」(素材)を科学的・実験的に創作する方法といったものをその典型として考えている。それに対し反自然主義とは、リアリズム的見方だけでは小説としては不十分であるとする立場として措定することにしたい。
 通常、近代小説の作品はリアリズム(認識可能な世界)をその基盤として成立しているが、しかし、それだけでは小説において重要な〈詩〉の問題が消去されてしまうと考える。ここで指摘した〈詩〉とは、単にジャンルとしてというよりも、人間の認識では捉えられない領域という意味合いとしてのものである。それらは認識を越えているという意味で〈超越〉的領域とも言い換えられるが、〈超越〉である以上、基本的に「語り得ぬもの」としてあるはずのものである。有島武郎や志賀直哉といった白樺派の作家はリアリズムの領域のみならず、むしろリアリズムを越えて〈詩〉の領域をも文学作品によって表そうと試みたと考えられるが、それ故、それらはそもそも「語ること」が不可能なものを語ろうとする困難さや葛藤を抱えた行為であったはずである。ここでは、そのような問題と有島武郎の創作活動、あるいは晩年の「詩への逸脱」や自死との関係等について、大まかな枠組みにおいての「想定概念」として考察していきたいと考えている。