有島武郎研究会

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第57回全国大会プログラム・発表要旨・各種ダウンロード

2015年5月3日更新(会報PDF不具合修正)
《特集 『白樺』と西洋美術への新視角》
 有島武郎研究会の第57回全国大会(2015年度夏季大会)を下記のように開催いたします。参加自由・聴講無料です。ご関心のある皆様のご来場をお待ちしております。

  • 日程 2015年6月6日(土)13時開会・17時終了
  • 会場 県立広島大学広島キャンパス 1175講義室
  • 交通
    • 広島バス「県立広島大学前(広島キャンパス)」下車 徒歩1分
    • 市内電車「県病院前」下車 徒歩7分(県立広島病院の方へ道なりに進んでください)

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===プログラム===
【評議員会】(12:00〜12:40)     1179講義室

  • 開会の辞(13:00) 

県立広島大学人間文化学部国際文化学科長 柳川 順子
【研究発表】
司会 大久保 健治
「涙ぐまし」きアナーキストたち ―有島武郎「骨」再考―
石井 花奈
《特集 『白樺』と西洋美術への新視角》
司会 三田 憲子
【報告】(14:00)

郡虎彦「松山一家」論 ―音楽、絵画の表象をめぐって―    
太田 翼
有島武郎における画家・美術 ―ミレーからアヴァンギャルド芸術へ―   
石田 仁志
「旅する心」とイタリア美術              
末永 航
【討議】(16:00〜17:00)

  • 閉会の辞 有島武郎研究会会長 三田 憲子

【総会】(17:00〜17:30)

【懇親会】(18:00)
 (会場)居酒屋 きゃぷてん 広島市南区皆実町6-6-29 電話082-251-1511

→発表要旨は「続きを読む」をクリック
【研究発表要旨】

「涙ぐまし」きアナーキストたち ―有島武郎「骨」再考―
石井花奈
 晩年の有島武郎とアナーキズムという大きなテーマを検討しようとするとき、個人雑誌『泉』第二巻第四号(一九二三[大正一二]年四月)に掲載された「骨」は、示唆に富んだ、格好の作品といえる。本作には、有島が関係を持っていたアナーキストたちの活動の様子および彼らとの交友関係が記されているからだ。
 多くのアナーキストたちが有島をリャク(略奪の意で、「リャク」というのは俗称。半ば強制的な資金カンパのこと)の対象として訪れていたこと、それに有島が腐心していたことは周知の通りだが、一方で有島が「変態的」(原田三夫『思い出の七十年』一九六六[昭和四一]年三月/誠文堂新光社)とまで言われるほど愛情を注いでいたのが、「骨」に登場する「おんつぁん」こと田所篤三郎と「勃凸」こと十文字仁である。とりわけ田所は「酒狂」(『泉』第二巻第一号/一九二三[大正一二]年一月)に登場する「B」のモデルでもあり、有島は二度も彼について記したことになる。
 「骨」は、「不良青年の極印」を捺された勃凸、「黒表(ブラックリスト)」の人間と見なされたおんつぁん、彼らに「凸勃」と渾名される「私」を中心とした物語である。肉親や社会から駆逐されながらも「よれよれになつて寝起きを共にする」彼らに対し、「私」は「痛まし」さを感じ、「立戻ら」してやりたいと思う一方で手を差し伸べるべきではないという思いをも抱え、その葛藤に引き裂かれていく。
 これは有島のアナーキストへの限りない共感や同情と、「宣言一つ」(一九二二[大正一一]年一月)に示された不関与という態度との二律背反性に重なるものだが、最終的に「私」が感じるのが「痛まし」さではなく「涙ぐまし」さなのだとすれば、本作には有島の新たな境地が記されていると考えられる。発表媒体である『泉』や「酒狂」との関連性なども視野に入れて、有島晩年の小説群を再考する足掛かりをつくりたい。

【特集 趣旨・要旨】
《特集 『白樺』と西洋美術への新視角》

【司会者より】
司会 三田 憲子
 『白樺』は、創刊以来ヨーロッパ美術を紹介し近代日本に移植した。なかでもロダンの彫刻やセザンヌを始めとした後期印象派を紹介した功績はつとに知られている。現在でも印象派・後期印象派の展覧会が日本の美術館のドル箱事業である事を思えば、白樺派は現代にまで通じる日本人の美的感性を先見的にとらえていたと言えよう。しかし、同時に白樺派の西洋近代美術受容は文学的で美術史的理解が欠落していると指摘されてきた。
 今回のシンポジウムは、白樺派の中からヨーロッパを実体験した郡虎彦、有島生馬、有島武郎を中心に取り上げ、白樺派に対する旧来の美術観を見直すという発表者共通の意識によって、新たな白樺派の西洋美術観が浮かび上がってくるはずである。
 有島生馬は、イタリア・フランスに美術留学し、1910年の『白樺』創刊時には、帰朝したばかりであった。その生馬の参加が『白樺』の西洋近代美術紹介を方向づけたと見ることが出来るし、生馬のセザンヌ紹介(「畫家ポール、セザンヌ」)は日本初の本格的なものと評価されている。
 有島武郎は、ギゾーやマイヤー等によってヨーロッパ史観を養い、アメリカ留学中には中世を中心に西洋美術・歴史の理解を深化させた。武郎は白樺派では異質な「客分」(本多秋五)的存在で、中世美術・ロダンと後期印象派・ミレー・表現主義への傾倒は一見脈絡なく映るが、時代社会の「転倒」を可能にする芸術という視点によって貫かれている。
 石田仁志氏は武郎のミレーからアバンギャルドに至る美術観の変容の意味を明らかにすることによって、武郎が画家や美術の中に見ようとしたものを明確にする。そこから他の白樺同人との差異がみえてくる。
 末永航氏は当時成立した近代歴史学・美術史学の視点から、有島兄弟のヨーロッパ旅行のうちイタリアに焦点を絞って、二人のイタリア観を比較検討する。さらに児島喜久雄・郡虎彦にも言及し、白樺派内の深い西洋美術理解を明らかにする。
 郡虎彦は、優れた語学力を持ち、学習院時代から英訳で西洋文学を受容した。美術ではベックリンやクリンガーからアバンギャルドまで受容していった。渡欧後は英語で戯曲を発表しロンドンで上演されるという快挙を成し遂げている。白樺派とは異質な作品世界を提示した特異な存在である。
 太田翼氏は、『白樺』創刊の年の11月に虎彦が『太陽』で受賞した「松山一家」を取り上げ、この狂気を描いた作品における西洋の美術と音楽の導入を検証し、渡欧以前の虎彦の西洋芸術受容を明らかにする。それによって、白樺派と美術の関係を捉えなおす。
 以上のような、石田・末永・太田三氏のヨーロッパ美術と白樺派の関係性の問い直しが、さらに会場との活発な議論をへて、白樺派理解の深化につながることを期待している。

郡虎彦「松山一家」論 ―音楽、絵画の表象をめぐって―    
太田 翼
 「白樺」の美術運動は日本における近代ヨーロッパ美術の紹介に大きく貢献し、当時の知識層に多大な影響を与えたとされる一方、その美術受容には「跨ぎ」(本多秋五)や「飛躍」(匠秀夫)があり、「歴史的意味に対する理解がまったく欠けていた」(高階秀爾)とされる。白樺派の関心は、作品そのものよりもその背後にある作家の人格や個性へと向けられているとまとめられることが多いが、後に武者小路が「郡の価値を全部的に認めたのはスバルの人達や、その時分の第二期の新思潮の連中だつた」と回想するように、耽美派の同人やパンの会とも交流のあった郡虎彦のような存在もある。本報告では白樺では異質とされた郡虎彦と美術の関係について考えたい。
 郡が西洋の芸術をいかに受容していたのかを考える上で、作家としての出発期における「松山一家」(「太陽」明治43年11月)を再読したい。「松山一家」は家族の狂気を描いたものであり、従来初期白樺に多い型の「神経衰弱」小説と評価されるにとどまっている。「世界同時的にネオ・ロマンティシズムを血肉化しながら世紀末的なモチーフを描いた小説」とする松本和也のように、「白樺」創刊号に掲載された「エレクトラ梗概」を参照し、ホフマンスタールからの影響を見るむきもある。しかし翌月発表された「歌劇としてのエレクトラ」には、「眞實の前には美を犠牲にすることに躊躇しなかつた」シュトラウスが「これまで音調の藝術には没交渉のものとしてあつた複雜な物體的心理的の描寫を試みた」ものであり「此の試みに於ては、彼は成功者」などとあり、郡は原作のみならず歌劇の表現手法にも注目していたことがわかる。郡の音楽への傾倒は追悼文において多くの友人たちが証言するところであるが、「松山一家」においても讃美歌の演奏が弓吉の精神状態に影響を及ぼすものとして描かれている。音楽を断念し、その代替として絵画を見る行為を選んだことが弓吉の狂気の直接的な引き金となるという物語の展開にも注目すべきであろう。西洋の音楽、絵画が狂気を表現する上でいかに機能していたかを検討することで、当時郡が西洋の芸術とどのように向き合っていたのかを明らかにできるのではないかと考える。
 「白樺」においては特異な位置を占める郡について考察することで、「白樺」と美術の関係を改めて問い直したい。

有島武郎における画家・美術 ―ミレーからアヴァンギャルド芸術へ―   
石田 仁志
 西洋絵画が日本の近代文学に与えた影響は非常に深いものであることは言うまでもない。明治30年代、J.ラスキン『近代画家論』に感化された島崎藤村は言葉による「雲」のスケッチを試み、田山花袋は描写論の中でピサロやモネの名を挙げて、自然を切り取るための構図および主観の重要性を主張した。しかし、それらは描写法の問題として、文学が絵画から受けた刺激であったと言える。それに対して、ミレーについては明治30年代半ばからのミレー・ブームの中で、その絵画技法の評価ではなく、画家としての人生、題材に多く描かれる農民や労働風景が高く評価され、愛好されたと言えよう。
 有島武郎は「ミレー礼讃」(1917・3)の中で次のように述べている。

 ミレーはより多く人の芸術家として出発した。その初期の製作中にあっては人を取囲む自然は重に人の背景としてのみ役立たれた。然し彼れの徹視はこれだけでは彼れを満足させなかった。彼れの人は自然に融け合って行った。そして遂に人は自然の中に没入してしまった。彼れの画幅にあるものは人物でもなく風景でもない。唯彼れの異常な天稟を通して見極められた自然があるばかりとなった。(引用は新潮文庫版『惜みなく愛は奪う―有島武郎評論集』より)

 有島がミレーの絵画および画家としての生涯に見たのは農民としての生活を描くことを通して、「人」と「自然」との融合した姿だったと言える。先行研究では内田真木氏が、「ミレー礼讃」執筆過程での妻や父の死、近代産業社会に背を向けたような生涯を賛美するミレー受容などを指摘したうえで、有島が見たのは「悲惨な生活にめげず芸術に精進する理想的芸術家ミレー」ではなく、「芸術のためには最愛の人々の生命や生活さえも放擲して止まないミレーの芸術への衝動とエゴイズム」、「「鈍い暗い生命の流れ」に身を置く、冷徹な運命に身を晒す芸術家ミレー」であったと指摘する(「評論『ミレー礼讃』について」〔『有島武郎研究』第2号、1998・11〕)。
 そうした有島のミレー評価の一方で、彼は「ミレー礼讃」以前の「新しい画派からの暗示」(1914・2・23「小樽新聞」)のなかではミレーには一切言及せず、マネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンの名を挙げて、彼らは「独り往く」者たちであり、「淋しい孤独な、しかも昂然として何者にも自らを卑うしない真剣な態度」がそこにはあると記し、強い自我こそが新しい芸術を生み出すとしていた。しかし、「ミレー礼讃」の中では「自然に没入して存在を失おうとした自己を引きもどして、その袂の塵を払った時、画壇にも早く自己に目覚めたセザンヌやゴッホがいた」として、印象派の登場を高く評価しつつも、それに続く現代芸術については「現代を支配する文化なるものは、厳密な意味での自己の確立とは背馳したものである事を知らねばならぬ」とし、「未来派の芸術と称せらるるものの如きは、一旦開放された個性が新しい道程に上る代りに、後ろを向いて現代の物質生活に投入しようとする、その根拠において妥協的な運動であると見るのが無理だろうか」と懐疑的である。ところが「ミレー礼讃」を挟んで、5年後の「芸術について思ふこと」(1922・1)では、有島は未来派や立体派、表現主義について「在来のあらゆる規範に対する個性の反逆」と評価し、表現主義は「第四階級」の中に芽生えるべき芸術だと述べるに至る。ここには、個性・自己と自然・生活・都会・階級との相克に揺れる有島の芸術観が窺える。彼は画家、美術の中に何を見ようとしたのだろうか。
 明治20年代から始まる日本でのミレー評価の変遷を一つの参照軸として、有島武郎の中でのミレーからアヴァンギャルド芸術へと変容していく画家観・美術観が何を意味しているのか、明らかにしていきたいと考えている。その過程では、「カインの末裔」(1917・7)や「生れ出る悩み」(1918・3〜4)での自然と生活、芸術の問題、有島生馬や武者小路実篤ほかの白樺派の同人たちの美術観との差異も見ていきたい。

「旅する心」とイタリア美術              
末永 航
 明治39(1906)年、アメリカ留学を終えた有島武郎はローマにいた弟生馬を訪ねてヨーロッパに渡り、この年の後半、兄弟二人はイタリア、スイス、フランスを一緒に旅して過ごした。
 この二人の留学は白樺派の中でも最も早く、私費による個人的なものだったが、『白樺』が刊行され、大正期に入ると、大学教員として官費留学する児島喜久雄やイギリスで劇作家を目指した郡虎彦のように、より長期の、そしていわばより深化したヨーロッパ体験をもつ人たちが現れてくる。
 19世紀後半から20世紀初めは、イタリアを含むヨーロッパで汽船の航路や鉄道が発達し、グランド・ホテルをはじめとする観光の基盤が整備された時期に当たる。また、これと幾分関係があるが、近代的な歴史学・美術史学が生まれ、ボッティチェッリをはじめとする初期イタリア・ルネサンス美術が再発見されて美術史に組み込まれていくのもこの時代のことだった。
  今回は、ハーヴァード大学で履修した4科目のうちのひとつが「中世およびルネッサンスの美術」(チャールズ・H・ムーア教授)だった有島武郎、そして東京外国語学校のイタリア語科に学び、画家になるためにイタリアに留学していた有島生馬が、イタリアで何を見、何を思ったのかを検討した後、大正期の児島、郡の場合を瞥見することにしたい。丸善や中西屋でたまたま見かけた画集に夢中になる、という以上の、西洋美術への理解が白樺派にもあったことが、想像できるのではないかと考える。<<[file:arishimaken:report56.pdf][file:arishimaken:program57.pdf][file:arishimaken:report56.pdf]